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会津若松城(福島県)/ホームメイト

「会津若松城」(あいづわかまつじょう)は、「豊臣秀吉」の命で奥州(陸奥国[現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県]の異称)の抑えとして会津の地を治めた「蒲生氏郷」(がもううじさと)によって基礎が築かれました。7層の天守を築いて城下町を整備し、地名を黒川から会津に改めたのも蒲生氏郷です。会津若松城は防御力が高いことでも知られ、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう:旧幕府軍と新政府軍の戦い)で攻め入られた際は、1ヵ月間にわたり敵を一兵たりとも城内に侵入させませんでした。「会津若松城(福島県)」では、会津若松城の歴史や見どころ、周辺の観光スポットについて詳しく紹介していきます。

会津若松城の歴史

会津若松城の素地を作った蘆名氏

会津若松城

福島県会津若松市に位置する会津若松城は、別名「鶴ヶ城」(つるがじょう)と呼ばれる歴史的な城郭です。その起源は14世紀後半まで遡り、当時の地域情勢と密接に結び付いています。

1384年(永徳4年)、蘆名氏(あしなし)の7代当主「蘆名直盛」(あしななおもり)が、会津の地に館を建設しました。蘆名氏は、会津若松城の前身である「黒川城」を本拠地とした武家領主です。この蘆名直盛が築いた「東黒川館」と呼ばれる建物が会津若松城の始まりとされています。当時、東北地方は様々な勢力が拮抗しており、蘆名氏は自らの領地を守るために戦略的な拠点を必要としていました。館の建設は、蘆名氏が会津地方の支配力を強化するうえで重要だったのです。

その後、15世紀半ば頃には「黒川城」として知られるようになり、蘆名氏の本拠地として発展。城の存在は周辺地域の発展を促し、徐々に城下町が形成されていきました。

戦国時代の会津若松城

戦国時代中後期には、「蘆名盛氏」(あしなもりうじ)が隆盛。黒川城を中心に版図(はんと:領土)を広げ、会津地方の中心としての地位を確立しました。

転機が訪れたのは、1589年(天正17年)のことです。当時、蘆名氏と敵対関係にあった「伊達政宗」(だてまさむね)が黒川城を攻め落とし、蘆名氏は滅亡。一時的に会津の地は伊達氏の支配下に置かれます。しかし、その状況は長くは続かず、翌1590年(天正18年)には、豊臣秀吉の命によって伊達政宗は会津を離れ、城の支配者が再び変わることとなりました。

1592年(天正20年/文禄元年)には、蒲生氏郷が入城。城と周辺地域に大きな変革をもたらしたのです。蒲生氏郷は黒川から若松へと町の名を改め、近世城郭にふさわしい大規模な改造を実施。7重の天守を築き、城名を鶴ヶ城へと改めました。蒲生氏郷の城郭整備と城下町の開発は、会津若松の都市としての基盤を築き、今日の発展にも大きく寄与しています。

江戸時代から激動の幕末をかけぬけた会津若松城

江戸時代に入ると、会津若松城は上杉氏、蒲生氏、加藤氏と支配者がしばしば変わり、1643年(寛永20年)には、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の四男「保科正之」(ほしなまさゆき)が入城。保科正之は会津松平家の祖として、明治維新まで会津の地を所領します。この間、1611年(慶長16年)に起きた「会津地震」で天守が倒壊するなどの災害に見舞われましたが、そのつど再建され、城の姿は保たれ続けました。

しかし、1868年(慶応4年/明治元年)、戊辰戦争の勃発により事態は一変。新政府軍との激しい戦いが繰り広げられる中、旧幕府軍である会津藩士達は籠城戦(ろうじょうせん:城に立てこもって敵と戦うこと)を決行し、およそ1ヵ月間城に立てこもりましたが、相次ぐ新政府軍の猛攻により、1868年(明治元年)9月22日に城を明け渡すこととなったのです。

近代における会津若松城

明治政府が出した「廃城令」(はいじょうれい:各地の城を軍用地もしくは売却財産として処分するかの取り決めをし、城を残すか廃城とするかを決める法令)では、会津若松城も例外とされませんでした。1874年(明治7年)までに天守をはじめとする建造物のほとんどが解体されてしまいます。

しかし、城の価値を認識していた地元の人々の尽力により、城地は一括して保存されることとなりました。1890年(明治23年)、旧会津藩士「遠藤敬止」(えんどうけいし)が私財を投じて城地を購入し、旧藩主松平家に莫大な資産を寄付。これにより城跡の保存が可能になったため、遠藤敬止は「鶴ヶ城趾保存の恩人」とも呼ばれています。

20世紀に入ると、会津若松城は文化財としての価値が再認識されるようになり、1934年(昭和9年)には国の史跡に指定。保存の取り組みが本格化していき、1965年(昭和40年)には天守閣の再建が行われました。現在、見ることができる天守閣は、このときに建てられた物です。鉄筋コンクリート造ながら、外観は忠実に復元され、内部は郷土博物館として整備されています。2001年(平成13年)には、本丸内に、兵糧の保存に使われた「干飯櫓」(ほしいやぐら)と、干飯櫓と表門をつなぐ長屋「南走長屋」(みなみはしりながや)が木造で復元され、さらに2011年(平成23年)には、天守の屋根が赤瓦に改修されました。

会津若松城の見どころ

天守と天守台石垣

会津若松城の天守は、1965年(昭和40年)に再建された物ですが、江戸時代の姿を忠実に再現した5層7階の層塔型天守になっています。2011年(平成23年)には、屋根が赤瓦に葺き替えられ、より史実に近い姿になりました。地上からは約36.5mの高さがあり、最上階の展望室からは、会津若松市街や周辺の山々を360度見渡すことが可能。内部は郷土博物館として整備され、会津の歴史や文化に関する展示を行っています。

また、天守を支える天守台石垣も見どころのひとつです。現存する石垣の多くは1592年(天正20年/文禄元年)の改築時に造られた物とされ、400年以上の歴史があります。地元の安山岩(あんざんがん)が使用され、「野面積み」(のづらづみ:石を加工せずに積み上げる手法)の技法が使われているのが特徴のひとつ。所々に戊辰戦争時の砲弾の跡が残る、歴史的価値の高い石垣として知られています。

天守台の石垣は、真上から見ると扇型になっており、その美しい曲線も会津若松城の魅力です。見学する際は、石垣の曲線美にも注目してみましょう。さらに、四季折々の美しい景色や、昼間とは異なる幻想的な世界が広がる夜間のライトアップも見どころです。

追手門と北出丸

会津若松城の天守から北側にある「北出丸」(きたでまる)は、城の「追手門」(大手門:城の正面に位置する門)を守る重要な場所です。外から追手門を通過するためには、北出丸の縁をコの字状に回らないといけない構造になっています。

通路は周囲がおになっているため見通しが良く、通過する際には攻撃の格好の的に。三方から絶え間なく攻撃を浴びせられる仕掛けになっていることから、北出丸は「皆殺し丸」とも呼ばれました。その効果は、戊辰戦争でも大いに発揮され、新政府軍は北出丸からの射撃で追手門に近付くこともできなかったという逸話が残っています。

廊下橋と高石垣

会津若松城の廊下橋

「廊下橋」(ろうかばし)は天守の東側に位置し、本丸から二の丸へ通じる朱塗りの橋です。もともと蒲生氏が城主だった頃は、屋根の付いた廊下造りだったためこの名が付いています。

戦の際には、木造の廊下橋を落下させて敵の侵入を防御するなど、重要な機能を果たしていました。

約19mもある高石垣も見どころのひとつ。石垣の上部に向かうにつれて勾配が急になり扇を開いたような曲線を描くことから「扇の勾配」(おうぎのこうばい)と呼ばれ、防御機能を持つことから「忍者落とし」とも呼ばれました。

移築された「御三階(おさんかい)」

「御三階」(ごさんかい)は、会津若松城の現存する唯一の遺構です。1870年(明治3年)まで会津若松城本丸に存在していましたが、城が解体された際に、会津若松市七日町にある「阿弥陀寺」(あみだじ)に移築されました。

城郭の小天守にあたる御三階は、外見上は3階建てですが、実際の内部構造は4層。2階と3階の間には天井の低い部屋が設けられています。3階への昇降には梯子が使用されており、不要な侵入を防ぐため3階から引き上げられるように設計されていました。この特徴から、秘密会議の場として利用されていたと考えられています。また、本丸から見て北東に位置していたことから、見張りや展望所としての機能も果たしていました。戊辰戦争により阿弥陀寺が焼失した際には、長期にわたり本堂の代替として使用されています。

会津若松城周辺の観光スポット

鶴ヶ城公園

麟閣

会津若松城周辺には、歴史と文化が息づく魅力的な観光スポットが数多く点在しています。

特に、「鶴ヶ城公園」は見どころが豊富。会津若松城のほかにも歴史的建造物があり、茶室「麟閣」(りんかく)は、茶の湯文化に触れられる貴重な遺構です。1591年(天正19年)、茶人「千利休」(せんのりきゅう)は豊臣秀吉の命により自害に追い込まれました。この悲劇を受け、会津領主の蒲生氏郷は千利休の茶道の伝統を守るため、千利休の養子「千少庵」(せんのしょうあん)を会津で保護。蒲生氏郷は「徳川家康」の助力を得て、豊臣氏に千家(せんけ:千利休を祖とする茶道流派)の再興を願い出ると同時に、この麟閣を建立しました。麟閣は、千利休の精神を後世に伝えようとする蒲生氏の意志を示す重要な遺構として、今日まで大切に保存されています。

会津さざえ堂

会津さざえ堂

会津若松城から車で約10分の場所にある「会津さざえ堂」もおすすめのスポット。1796年(寛政8年)に飯盛山(いいもりやま)に建立されたお堂で、正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)です。

この六角三層のお堂の高さは16.5m。当時、飯盛山にあった「正宗寺」(しょうそうじ)の住職「郁堂」(いくどう)の発案により造られました。会津さざえ堂は構造が独特で、名の通り内部には巻貝のように2重螺旋のスロープが設けられています。上りと下りの通路が完全に分離された一方通行の設計になっており、参拝者がすれ違うことはありません。世界でも珍しい建築様式が評価され、1996年(平成8年)に国の重要文化財に指定されています。なお、かつては西国三十三観音像が安置されており、これにより参拝者は堂内を巡るだけで三十三観音巡礼ができるとされていました。

会津若松市内には、幕末の悲劇で知られる「白虎隊」(びゃっこたい)に関する史跡も点在しています。会津さざえ堂の目の前に建つ「白虎隊記念館」では、遺品、遺墨、写真など、1万2,000点にも及ぶ戊辰戦争関係の史料やジオラマなどを展示。白虎隊の歴史や隊員の生涯、最期の様子を詳しく学ぶことができます。

七日町通り

七日町通り

下町の風情が残る「七日町通り」は、大正ロマンを感じられるおすすめの観光スポットです。昭和30年代頃までは、会津一の繁華街として賑わい、江戸時代から続く商家や蔵が数多く立地。昔ながらの町並みを散策することができます。

会津の伝統工芸品のひとつ「会津絵ろうそく」をはじめとする地元の名産品や工芸品を扱う店も多く、お土産探しにも最適。明治時代からの店構えが残る会津絵ろうそくの老舗「小澤ろうそく店」では、職人が1本ずつろうそくを手作りし、手書き模様の伝統を守っています。絵ろうそくの絵付け体験もできるため、挑戦してみてはいかがでしょうか。

御薬園

会津松平氏の菩提寺である「御薬園」(おやくえん)も見どころのひとつです。「会津松平氏庭園」として国の名勝に指定され、四季折々の自然美を楽しめるのが魅力。古くは薬草を育てる薬草園として機能し、戊辰戦争の際には新政府軍が療養の拠点として使用していました。これにより、戦禍に巻き込まれることなく、当時の姿を留めています。

園内にある抹茶処では、お店の名物、手作りのごま羊羹がおすすめ。歴代藩公が愛した庭園を眺めながら、一服してみてはいかがでしょうか。抹茶処の営業期間は3月中旬~11月末。園内には照明がないため、冬季は明るい時間に訪れるのがおすすめです。

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