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百舌鳥・古市古墳群(大阪府)

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2019年(令和元年)に「百舌鳥・古市古墳群」(もず・ふるいちこふんぐん)がユネスコ世界遺産に登録されました。「百舌鳥」は大阪府の堺市に、そして「古市」は羽曳野市と藤井寺市にあたります。イコモス(国際記念物遺跡会議)は、「古墳時代の埋葬と伝統と社会構造を証明しており、普遍的価値がある」と評価。日本政府が推薦していた49墓の古墳すべてが対象となっています。「百舌鳥・古市古墳群」には、宮内庁が皇室の祖先の墓とする陵墓が29基含まれていますが、陵墓が世界遺産に登録されるのは初めてのこと。

なお、仁徳天皇陵古墳など一部の名称を巡っては、被葬者が特定できていないとして専門家の間で異論が唱えられているケースも多いのですが、推薦書は宮内庁が陵墓として管理していることを踏まえ「天皇陵古墳」と表記しています。ここでは(伝 被葬者)の表記で統一します。

百舌鳥地区

古市地区

百舌鳥地区

「百舌鳥」の由来

百舌鳥の古墳群は、大阪府の堺市にある古墳群。「百舌鳥」という地名については、『日本書紀』にこのように神話的な記述があります。「石津原」(いしつのはら)と呼ばれていたこの地を、仁徳天皇が御陵の造営場所に決め、工事を開始。すると、野原から一頭の鹿が走り出て、工人たちに向かってきました。しかし、あわや衝突というところでその鹿は倒れこんだのです。不思議に思って調べると、鹿の耳から百舌鳥が飛び立ち、鹿の耳の中が喰いさかれていました。百舌鳥はぶつかってこようとした鹿から、工人たちを助けたということです。実際に百舌鳥が鹿の耳を喰いさいたとは考えにくく、百舌鳥は神の使いを象徴する存在として描かれたという説があります。その他に、この地に「百舌鳥耳原」という地名が先にあり、後付けで伝説が考え出されたとする説も。いつごろから「百舌鳥」と呼ばれるようになったのかは、定かではありません。

大仙陵古墳(伝 仁徳天皇陵古墳)

「大仙陵古墳」は、宮内庁により「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵」(にんとくてんのうもずみみはらのなかのみさざき)として管理されています。墳丘の全長は486mにも亘るという、クフ王のピラミッド・秦の始皇帝陵とも並ぶ、最大級の墳墓。

これほど巨大な古墳を造営するためには、1日に2,000人が従事するとしても、15年8ヵ月を要すると言われています。

大仙陵古墳
大仙陵古墳

仁徳天皇の有名なエピソードといえば、「民のかまど」ではないでしょうか。民のかまどから炊煙が上がっていない様子を高台からご覧になり、その貧しさを察して3年間の租税免除を命じ、自らも質素倹約につとめられたという話です。また、仁徳天皇は、民のために大規模な治水工事や土木工事を積極的に行なったことでも知られています。政の基本は民にあると考え、善政を行なった聖帝と讃えられました。

一般的に、巨大な古墳を築造する最大の目的といえば、権力を誇示することです。この「大仙陵古墳」は、学術的に被葬者を特定できないと指摘する声もあがっていますが、もし本当に仁徳天皇の陵であるならば、権力を誇示するためよりも、むしろ、民に仕事を与える公共事業の意味合いが強かったのではないかとする見方もあります。

上石津ミサンザイ古墳(伝 履中天皇陵古墳)

「上石津ミサンザイ古墳」は、日本で3番目の大きさの古墳です。別名「石津が丘古墳」とも呼ばれます。造営当時と比べて水位が大幅に上昇していますが、これは近世に濠(ごう:土地を掘って水を通した所)が農業用水として利用されてきたため。周囲には、二重の濠がめぐらされていたと言われています。また、「大仙陵古墳」は、地震による地すべりの影響で等高線が乱れていますが、この「上石津ミサンザイ古墳」は、そういった乱れがほとんどありません。そのため、「上石津ミサンザイ古墳」の方が、より緻密に造られているとも言われています。

上石津ミサンザイ古墳
上石津ミサンザイ古墳

宮内庁は、この「上石津ミサンザイ古墳」を、履中(りちゅう)天皇の陵と治定(じじょう:決定すること)。履中天皇は、仁徳天皇ののちに即位した第17代天皇です。仁徳天皇の第一皇子にあたりますが、考古学者によると、「仁徳天皇陵古墳」よりも古く、築かれた年代が逆転してしまうことから、被葬者は履中天皇ではないとする説もあります。

田出井山古墳(伝 反正天皇陵古墳)

「田出井山古墳」(たでいやまこふん)は、仁徳天皇の第三皇子、第18代反正(はんぜい)天皇の陵と伝えられています。しかし、大きさから考えて、こちらは陪塚(ばいちょう/ばいづか)のひとつで、「土師ニサンザイ古墳」のほうが本当の「反正天皇陵」なのではないかという説も。「陪塚」とは、中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族・臣下を埋葬するための墓、あるいは、大型古墳に埋葬された首長の副葬品を納める目的で築造された古墳を言います。

田出井山古墳
田出井山古墳

言い伝えによれば、兄である履中天皇が太子のときに、住吉仲皇子(すみのえのなかつおうじ)の乱が起こり、これを平定したのが反正天皇であるということです。

いたすけ古墳

いたすけ古墳
いたすけ古墳

堺市には、戦後、宅地へ姿を変えた墳丘が数多くありますが、それは、堺市が軍需産業都市だったことが影響しています。戦争中は空襲の標的になり、市街地は戦後焼け野原となっていたのです。復興のため、住宅再建が最優先に進められました。

「いたすけ古墳」も宅地造成計画によって破壊の危機に直面しましたが、市民の反対運動によって計画は中止に。当時、重機が通るために架けられた橋は、古墳保存運動の成功例の象徴として、壊れかけの姿のまま残されています。

このような歴史を持つ「いたすけ古墳」ですが、現在では、そのはしげたの上に野生のタヌキが生息する古墳としても知られています。

古市地区

羽曳野市に存在した埴輪工房

古市地区の古墳群は、羽曳野市から藤井寺市にかけて分布している古墳群です。巨大な前方後円墳から小型方墳まで、墳形や規模がバラエティに富んだ古墳が存在しているのが特徴。そんな大小様々な古墳が集中する古市古墳群のなかにあって、古墳に供給するために数多くの埴輪を製作した重要な工房と見られているのが、羽曳野市の「誉田白鳥埴輪製作遺跡」(こんだはくちょうはにわせいさくいせき)です。発掘調査では、円筒埴輪や形象埴輪がたくさん発見されました。円筒埴輪は、外側の仕上げ方などが時代によって変化するため、その特徴によって古墳が築かれた年代を決める手がかりになります。また、形象埴輪は、人物・動物・家・武器など、人々の暮らしに密接に関わっていたものをまねて作られているため、当時の暮らしを知る上で重要な価値を持っているのです。「誉田白鳥埴輪製作遺跡」は、1973年(昭和48年)国の史跡に指定されました。

円筒埴輪
円筒埴輪

誉田御廟山古墳(伝 応神天皇陵古墳)

誉田御廟山古墳
誉田御廟山古墳

「誉田御廟山古墳」(こんだごびょうやまこふん)は、「古市古墳群」のなかでも最大の大きさです。堺市の「大仙陵古墳」に次ぐ規模ですが、表面積や体積では、「大仙陵古墳」を上回っています。

墳丘の周囲には二重の濠と堤を巡らし、複数の陪冢を配置。古墳時代の中期(5世紀前半)に築造されたと考えられ、規模や構造がもっとも発達した最盛期の巨大前方後円墳のすがたを示しています。

「誉田御廟山古墳」の特徴としてもうひとつ挙げられるのは、東側が、いびつな形になっていること。先に造られた「二ツ塚古墳」を避けるために、濠と堤を屈曲させて「誉田御廟山古墳」を築造したと考えられ、「二ツ塚古墳」は、応神(おうじん)天皇が遠慮しなければならないような重要な人物の御陵である可能性があるのです。

出土遺物には、円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなど特殊な土製品もあります。

白鳥陵古墳(伝 日本武尊陵)

「白鳥陵古墳」(はくちょうりょうこふん/しらとりのみささぎこふん)は、「前の山古墳」や「軽里大塚古墳」(かるさとおおつかこふん)といった別称も持ちます。宮内庁により、「日本武尊」の陵に治定されていますが、実際の被葬者は明らかになっていません。

日本書紀などによると「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり、白鳥の姿になって古市に飛来し、また埴生野の空へ向かって羽を曳くように飛び去った」と伝えられています。この言い伝えは、羽曳野市の名前の由来にもなっているのです。

白鳥陵古墳
白鳥陵古墳

藤井寺市から出土し、大ニュースになった「修羅」

1978年(昭和53年)3月、藤井寺市にある三ッ塚古墳(3基並んで造られた助太山古墳・中山古墳・八島塚古墳の総称)の周濠から、大きな「修羅」が出土しました。考古学上の大発見のため、全国からたくさんの見学者が訪れ、長蛇の列ができたといいます。「修羅」とは、古代の木ぞりのこと。重い荷物を乗せて運ぶために使用します。通常、木製品は濡れたり乾いたりを繰り返すうちに壊れやすい物。ところが、この「修羅」の場合は、周濠の底に地下水が常に供給されていました。そのため、水付けの状態を保ち、奇跡的に形をとどめていたのです。

市野山古墳(伝 允恭天皇陵古墳)

古代の律令時代に、古墳のすぐ近くに「餌香の市」(えがのいち)という市(古代都市内の商業地区)が置かれていたことから、この地は古くから「市の山」と呼ばれていたと言われています。「市野山古墳」は、明治時代のはじめに当時の宮内庁によって第19代允恭(いんぎょう)天皇の陵として治定(じじょう:決定すること)されましたが、江戸時代の末期に修復されるまでは、陵墓として管理されていませんでした。江戸時代後半に、このあたりでは綿作りが盛んになり、綿畑として利用されていたと伝わっています。

市野山古墳
市野山古墳

岡ミサンザイ古墳(伝 仲哀天皇陵古墳)

岡ミサンザイ古墳
岡ミサンザイ古墳

「岡ミサンザイ古墳」は、「恵我長野西陵」(えがのながののにしのみささぎ)として、仲哀(ちゅうあい)天皇の陵と治定されています。仲哀天皇は、非実在説が唱えられている天皇のひとり。

「岡」は、このあたりの地名で「ミサンザイ」は「ミササギ」(御陵のこと)が変化したものと考えられますが、諸説有ります。くびれ部分の東側に造り出しのある古墳です。

造り出しとは、古墳のくびれ部分の片側、あるいは両側に取り付けられた壇上の施設のこと。

出土した埴輪の特徴などから、「市野山古墳」よりも新しく、「ボケ山古墳」(仁賢天皇埴生坂本領陵:にんけんてんのうはにゅうのさかもとのみささぎ)よりも古い様相がうかがえ、仲哀天皇と時代が一致しないという理由から、ここを雄略天皇の陵とする説も唱えられています。また、「岡ミサンザイ古墳」は、年中水を貯えており、多くの水鳥がやってくる古墳です。

仲津山古墳(伝 仲姫命陵古墳)

「仲津山古墳」(なかつやまこふん)は、応神天皇の皇后・仲津姫が埋葬された陵墓として、宮内庁に管理されていますが、現在では仲姫命陵ではないとする見解が、ほぼ定説です。5世紀前半に築造されたと考えられており、内部構造・副葬品は不明ですが、石棺の存在や勾玉の出土が伝わっています。

国府台地の高いところに造られており、多くの水を貯めておくことは難しく、はじめから空堀でした。周囲に遊歩道が造られており、周濠に沿って歩きながら、フェンス越しに墳丘の様子を間近に見ることができます。

仲津山古墳
仲津山古墳

津堂城山古墳(藤井寺陵墓参考地)

「津堂城山古墳」(つどうしろやまこふん)は、戦国時代、三好氏の砦になりました。墳丘の形が大きく崩れているのも、城が築かれていたため。地元の人からは「城山」と呼ばれることも多いですが、全国に、中世に城として使用され、「城山」と呼ばれるようになった場所がいくつもあるので、考古学的には所在地名の「津堂」をつけた古墳名で扱われます。

津堂城山古墳
津堂城山古墳

地元の人々にとっても、ここは長い間、古墳として認識されていませんでした。一部は農地として利用され、子どもたちが遊ぶ山としても親しまれるように。津堂八幡神社が置かれ、お参りや祭りの場所にもなりました。

明治初期、どの古墳がどの天皇の陵であるかを選定考証する目的で、陵墓調査が行なわれましたが、この調査でも「津堂城山古墳」は、古墳として認識されず、陵墓参考地の選定からももれてしまいます。墳丘が変形し、濠や堤の形も分からない状態だったからです。

では、どうやって古墳であることが判明したのでしょうか。それは地元の人々によって掘り起こされた石がきっかけでした。1909年(明治42年)、神社合祀の勅令が発せられ、このとき、津堂八幡神社も合祀の対象になったのです。津堂村の人々は、神社が存在していた記念に、石碑を建てることにしました。城山の山頂に大きな石があることは、この地域で知られており、石碑はそこから持ってくることに。そして、石を掘り起こしたところ、思いがけずその下から巨大な石棺が出土し、人々を驚かせました。石碑に使おうとした石は、石棺の天井石だったのです。

調査の結果、副葬品などから大王級の古墳であることが判明。宮内庁管理の陵墓については、発掘調査ができないこともあり、大王級の古墳で発掘調査されているところは、他にありません。明治時代、偶然に得られたものとはいえ、「津堂城山古墳」の調査資料は、学術的に大変価値の高い貴重なものといえます。

百舌鳥・古市古墳群 公式サイト
http://www.mozu-furuichi.jp/