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日本の名園・庭園100選

日本の名園・庭園 100選鹿児島県

知覧武家屋敷庭園

庭園の時代
  • 近世/江戸

鹿児島県南九州市には、江戸時代中期に整備されたと言われている、知覧武家屋敷群が残っています。母ヶ岳を借景に取り入れた知覧武家屋敷庭園の姿は、比叡山に似ていることもあり、「薩摩の小京都」と古くから呼ばれてきました。ここでは、鹿児島を旅する際の参考になるよう、「知覧武家屋敷庭園」についてご紹介します。

知覧武家屋敷庭園の施設情報知覧武家屋敷庭園の施設情報

知覧武家屋敷庭園の施設概要

国指定名勝となっている

知覧麓の武家屋敷群(外観)

知覧武家屋敷群は、1981年(昭和56年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。「西郷恵一郎氏邸」・「平山克己氏邸」・「平山亮一氏邸」・「佐多美舟氏邸」・「佐多民子氏邸」・「佐多直忠氏邸」・「森重堅氏邸」の7庭園は国指定名勝。さらに、1986年(昭和61年)には、建設省(現在の国土交通省)日本の道100選(優れた環境で美しい景観)に選ばれ、建設省手作り郷土賞(人と風土が育てた家並み)も受賞しています。

知覧武家屋敷群は軍事行政上の拠点だった

江戸時代、徳川幕府は諸大名に居城を除くすべての城の破却を命じる一国一城令を制定し、それを厳守させていました。そこで、薩摩藩(現在の鹿児島県域)では、藩主の居城である「鶴丸城」の他に、旧城の麓に113の外城を置き、防衛もかねた城塁型の武家屋敷群を建造。つまり、人をもって城となす、軍事行政上の拠点としていました。外城の防備にあたっていた郷士が居住する場所を麓と呼び、平時は農業を営み、非常時に備えて武技を磨く日々を送っていたのです。知覧武家屋敷群もその軍事拠点のひとつで、御仮屋と呼ばれる知覧領主の居宅を中心として形成されました。

知覧武家屋敷庭園に関連する大名・武将

知覧武家屋敷庭園群を形成したのは、知覧の18代領主である「島津久峯」(しまづひさたか)で、1760年(宝暦10年)頃と言われています。ここでは、薩摩藩第22代藩主「島津継豊」(しまづつぐとよ)の3男として生まれ、家老で知覧の領主の「島津久豪」(しまづひさたけ)の養子となった島津久峯や、知覧領主の佐多氏についてご紹介します。

知覧は南北朝時代から佐多氏の領地だった

鎌倉時代の1318年(文保2年)、薩摩藩4代藩主「島津忠宗」が南九州の要所を7人の子息に分与しました。その際、三男である「島津忠光」が大隅国の「佐多」(現在の鹿児島県南大隅町)を継承、領有することになり、佐多氏を称するようになったのです。島津忠光改め「佐多忠光」は、さらに1358年(延文3年)に「足利尊氏」により薩摩国の知覧(現在の鹿児島県南九州市知覧町)を与えられます。

知覧は南北朝時代から佐多氏の領地だった

知覧は、南北朝時代の頃から佐多氏の領地でしたが、1595年(文禄4年)に「太閤検地」に伴う所替えにより、種子島氏が知覧の領主として移封されたのです。その後、佐多氏が旧領である知覧の一部を与えられたのが1610年(慶長15年)。正式に知覧の領主として復帰したのは、1677年(延宝5年)のことでした。

佐多氏が島津姓を許される

1677年(延宝5年)に、佐多氏が知覧領主として正式に復帰したのは、佐多氏第16代当主の「佐多久達」の代でした。佐多久達は、薩摩藩19代藩主「島津光久」の5男として生まれ、佐多氏に入って佐多久達を名乗ります。その後、歴代の薩摩藩主に仕え、その功により、21代藩主「島津吉貴」の代で長男家のみが名乗っていた島津姓を特別に名乗ることが許されました。

佐多氏当主は文武に優れた者が多かった

佐多氏は、薩摩藩主である島津氏の分家であったため、参勤交代の際には重臣として随行していました。この際、京都に立ち寄って影響を強く受けたこともあり、武だけでなく文の道にも優れた者が多くなったのです。

知覧武家屋敷群を造ったのは知覧島津氏18代当主島津久峯の時代

知覧武家屋敷が造られたのは、佐多氏改め知覧島津氏18代当主島津久峯の時代で、1760年頃(宝暦10年)と言われています。御仮屋(知覧領主の居宅、現在の知覧町役場の付近)を中心に、武士小路割を定めて、各一方眼を自治区画としました。それぞれの屋敷が塁のような防衛障壁となるように工夫されており、現在の知覧武家屋敷群はその一部です。庭園は、当時京都から同道してきた庭師によって造られたと伝えられています。

知覧武家屋敷庭園の特徴・様式

水を用いずに山水の風景を表現し、主に石組みで構成される日本庭園の一様式である枯山水が、知覧武家屋敷庭園の大部分を占めています。現在一般公開されている7庭園のうち、森重堅氏邸庭園だけが唯一水を配した池泉式庭園です。
ここでは、知覧武家屋庭園の特徴や様式について紹介します。

西郷恵一郎氏邸庭園

西郷恵一郎氏邸庭園では、南東部の隅に造られた枯滝の石組みを高い峯と見立て、この峯からイヌマキを高く低く刈込んで表現されているのが、遠く見える連山。鶴亀の庭園とも呼ばれ、高い石組みを鶴とし、亀は大海にそそぐ川の水辺で遊んでいるように配されています。

平山克己氏邸庭園

平山克己氏邸庭園は、母ヶ岳の優雅な姿を取り入れた枯山水の借景園です。北側の隅の石組みを主峯として、イヌマキの生垣を母ヶ岳の山脈と見立てます。庭園のどの部分を切り取っても調和の取れた表現。大海原に無人島が浮かび、緑の大陸を遠く臨む景色を楽しむことができます。

平山亮一氏邸庭園

平山亮一氏邸庭園は、石組みのない大刈込み一式で設けられた、枯山水の庭園です。イヌマキによって延々たる連山が表現され、その中に3つの高い峯が見えます。前面にはサツキの大刈込みが築山のように配されており、母ヶ岳を取り入れた借景園として、簡素さでも際立った名園。

佐多美舟氏邸庭園

知覧麓の武家屋敷群(庭園)

佐多美舟氏邸庭園は1751年(寛延4年)に造られたと言われ、知覧の中で最も豪華で広い庭園として知られています。枯滝があり、築山の上部に石灯籠が置かれた下部に配されるのは、巨大な石による石組み。訪れる人は、門をくぐって書院の前に出て、そこから石組みが力強く延々と流れる様を楽しむことができます。

佐多民子氏邸庭園

佐多民子氏邸庭園は巨大な奇岩を積み重ねて、深山幽谷を表現する枯山水の庭園です。石橋の下をくぐって小舟で行くと、岩の上から仙人が手招きしているような光景を映し出します。庭石は、武家屋敷群の横を流れる麓川から運んだ凝灰岩質。牛馬で運びやすいように巨岩が石目に沿って割られています。

佐多直忠氏邸庭園

佐多直忠氏邸庭園は、門をくぐると目隠しと防御をかねた切石である屏風岩が配されているのが特徴。母ヶ岳を望む枯山水の庭園で、築山が一隅に設けられ、その中央に3.5mの立石がそびえ立ちます。立石の下部には多数の石組みが配置されて枯滝を表現し、水墨画を思わせるような名園。

森重堅氏邸庭園

森重堅氏邸庭園は「亀甲城跡」の西麓に位置します。森家は領主の重臣の家柄で、住居や土蔵も1741年(寛保元年)に建てられた建築として見どころのひとつです。国指定名勝となっている知覧武家屋敷庭園の中で唯一の池泉式庭園。曲線に富んだ池には奇岩怪石を配し、近隣の山や半島を表現しています。対岸には洞窟を模した穴石が用いられ、水の流れを象徴。庭園の要である庭園入口の右側にある石は、雲の上の遠山を表現しています。

知覧武家屋敷庭園の見どころ

薩摩藩の軍事行政上の拠点として造られ、江戸時代の姿を現在に残しているのが、知覧武家屋敷庭園です。ここでは、庭園の見どころについてまとめます。

沖縄の影響も受けている

知覧の港は、江戸時代には琉球貿易の拠点となっていたため、知覧武家屋敷群は沖縄の影響も受けています。屋敷の入口に見られる目隠しと防衛をかねた屏風岩は、沖縄ではヒンプンと呼ばれている石。沖縄によく見られる魔よけの石碑 石敢當(いしがんとう)も、随所で見られます。

平山亮一氏邸庭園ではサツキの季節が美しい

知覧武家屋敷庭園群のひとつである平山亮一氏邸庭園は、石組みのない大刈込み一式の庭園ですが、築山のような大刈込みとなっているのがサツキです。毎年5月下旬から6月上旬にかけてきれいな花を咲かせるサツキ。この季節しか見られない美しい風景を楽しむことができます。

知覧独特の民家が残る

知覧麓の武家屋敷群(ツツジ)

知覧武家屋敷群には、知覧独特の民家も移築されました。「オモテ」(客間)と「ナカエ」(母屋)を連結し、そこに小さな棟を設けた造りになっており、知覧型二ツ家と呼ばれています。

知覧武家屋敷庭園の施設情報

知覧武家屋敷庭園の施設情報についてまとめました。

フリックによる横スライド仕様となります。

フリックによる横スライド仕様となります。

施設名 知覧武家屋敷庭園(ちらんぶけやしきていえん)
所在地 〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡13731番地1
アクセス 指宿スカイライン「知覧IC」より車で約15分
開園時間 9時~17時 休園日 年中無休
料 金 大人:530円、小中学生:320円※団体割引あり

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