
大谷吉継陣跡は、岐阜県関ヶ原町にあります。名神高速道路関ヶ原インターチェンジを降りて車で4分です。石碑や案内文、陣屋の跡などがあり、臨場感がありました。豊臣秀吉の子飼いの武将で石田三成の盟友。この地で果てた悲運の武将に想いを馳せました。
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大谷吉継陣跡は、岐阜県関ヶ原町にあります。名神高速道路関ヶ原インターチェンジを降りて車で4分です。石碑や案内文、陣屋の跡などがあり、臨場感がありました。豊臣秀吉の子飼いの武将で石田三成の盟友。この地で果てた悲運の武将に想いを馳せました。
関ケ原の合戦の史跡巡りをしてきました。国道21号から少し入った所に専用の駐車場があります。そこから神社の鳥居をくぐって10分程山道を登った山中に陣跡があります。大谷吉嗣は石田三成率いる西軍の武将の中でも首脳の一人です。光成から挙兵の旨を打ち明けられたときは「無謀だ」と再三に渡って説得を試みますが、光成の決意に心打たれ負けるのを承知で西軍に付いたといわれています。その後、北陸方面の多くの大名を西軍へ勧誘しました。吉嗣は山中村へ布陣し、正面に布陣した小早川秀秋の動きを不審に思い寝返った際の準備をしたそうです。病を得ていたため開戦後は後方で指揮をとり藤堂高虎や京極高知らの軍と戦いましたが、小早川秀秋が寝返り大谷軍へ矛先が向けられます。これを予測していた吉嗣は兵力で圧倒的に不利な中、小早川軍の攻撃を幾度となく跳ね返します。しかし、自らの指揮下にあった脇坂安治らも西軍に寝返ってしまい吉嗣は敗北を悟りました。その後、三方から攻め込まれ大谷隊は壊滅します。大谷隊の壊滅により戦いの均衡は一気に崩れました。それまで善戦していた西軍諸隊は動揺し、総崩れの発端となりました。元々戦に反対だった吉嗣。光成との友情や豊臣家への恩のために散った武将の想いを感じることができました。史跡の中では山道を歩く分少し大変でしたが、行く価値がありますよ!
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