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富岡製糸場(群馬県)

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2014年(平成26年)、群馬県富岡市に残る富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が、周辺の市町にある関連文化財と一緒にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されました。この世界遺産について詳しくご紹介致します。

富岡製糸場と絹産業遺産群とは

日本における養蚕業

富岡製糸場とは

田島弥平旧宅

高山社跡

荒船風穴

富岡製糸場と絹産業遺産群とは

ユネスコ世界遺産に登録された正式名称は「富岡製糸場と絹産業遺産群(きぬさんぎょういさんぐん)」です。

今回指定された遺産群はいずれも絹産業に深くかかわった施設ばかりで、富岡製糸場はその代表的な存在です。

これらの世界遺産構成資産はいずれも、同じ日本にある世界遺産、京都や奈良にある遺跡群などと比べれば歴史は浅いものですが、日本が江戸時代から明治維新を経て、大正、昭和と近代化が進んでいく中で、富岡製糸場をはじめとした絹産業が大きな役割を果たしました。

日本における養蚕業

ユネスコ世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」を知る上で重要なキーワードは、「養蚕業(ようさんぎょう)」です。「カイコ(蚕)」という虫を飼って営まれる産業が養蚕業で、中国で発祥したと考えられています。その技術は、弥生時代の日本に伝来しました。

カイコは、簡単に言えば蛾の幼虫です。養蚕業で飼われるのは家畜化されたカイコで、これを特に「家蚕(かさん)」と呼びます。カイコは、成長過程で生糸(きいと)を吐いて繭(まゆ)を作り、蛹(さなぎ)になる習性がありますが、その生糸を素材として収集し、絹を生産するのが養蚕業です。

養蚕業は、世界中でそれぞれの発展を見せましたが、日本では特に独自の進化を果たし、優れた生糸及び絹製品を作っていたとされています。

富岡製糸場が果たした歴史的な役割

富岡製糸場
富岡製糸場

生糸から生産される絹織物は、本場である中国製のものが長らく人気でした。絹製品を運搬するために作られた「シルクロード」などは、中国製絹製品の栄華を象徴する代表例のひとつで、日本へも江戸時代までは多くの絹製品を中国から輸入していたと記録に残されています。

江戸時代までの輸入では、絹製品を輸入するためには日本にある金銀などの貴金属を輸出する必要がありました。それによる財産の国外流出を懸念した江戸幕府によって、日本における養蚕業が積極的にバックアップされるようになり、徐々に日本独自の進化を見せるようになっていきます。

そうして発展を続けた日本の養蚕業は、いつしか世界でも珍重されるようになり、明治時代には最盛期を迎えます。20世紀初頭には、日本が中国を追い抜き、世界一の生糸生産国になったのです。

この頃の日本は富国強兵を目指して近代化を急速に目指していた時代です。養蚕業で手に入れた外貨はその貴重な財源になり、日本は急速的に発展していくことができました。

日本産絹製品というブランド

20世紀初頭あたりの時代、日本製の生糸と絹製品は品質が高いものとして世界各国で珍重されるようになりました。

日本で独自の発展が進められた養蚕業。その具体例のひとつは、厳密なカイコの管理にあったと考えられています。日本の養蚕業では、カイコが生糸を生み出す時期に合わせ、集中的に生糸を生み出して効率良く絹製品を生産していました。

富岡製糸場
富岡製糸場の繰糸機

また、日本の養蚕家の間ではカイコを「お蚕様(おかいこさま)」と呼んでいました。家畜としてではなく、ありがたい存在としてカイコを扱う意識は、自然と共存する日本ならではのものだと考えられています。

なお、この頃にヨーロッパでカイコの伝染病が流行し、ヨーロッパでの養蚕業が急速に衰えていったのも、日本にとっては追い風になったと考えられています。

富岡製糸場とは

1872年(明治5年)、明治政府によって建てられたのが富岡製糸場です。

富岡製糸場は、日本の近代化を目指す上で重要な役割を持つ施設として高く期待され、当時最高だと考えられていた機械や技術が結集されました。

設置場所に富岡が選ばれたのは、横浜のフランス商館で勤務していたポール・ブリュナの発案によるものです。

元々養蚕業が盛んだったこと、水の入手性が高く広い土地があって理想的な環境であること、燃料になる石炭が近くで産出されていることなどが主な理由です。

製糸場としての特徴

富岡製糸場
富岡製糸場

当時の明治政府により、国を代表する産業になってほしいと建設されたのが富岡製糸場です。

そのため規模はとても大きく、当時世界にあった製糸場の中でもトップクラスだったとされています。

広い土地を確保して余裕を持った空間設計が成されているのも特徴です。養蚕や織物の技術が発展するに伴って、産業機械は徐々に大きくなっていきましたが、富岡製糸場は特に増築などをすることもなく、それら最新機器を次々と採用していくことができました。

富岡製糸場 公式サイト
http://www.tomioka-silk.jp/

田島弥平旧宅

明治初期の時代に大きな影響力を持ったと考えられる養蚕業者、田島弥平(たじまやへい)が住んだ民家で、群馬県南部の伊勢崎市に位置しています。

田島弥平は、独自の理論で自宅を改築しており、その状態が残されている旧宅はユネスコ世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産のひとつに選ばれました。

カイコのために風通しを良くしているのが特徴で、「総ヤグラ」と呼ばれる屋根の形状にその工夫を見ることができます。

田島弥平という人物

田島弥平旧宅
田島弥平旧宅

日本の養蚕業を語る上で外せない偉人のひとりが田島弥平です。明治初期に行なわれたカイコの養育法「清涼育(せいりょういく)」を確立し、本を著してその発展に努めています。

「清涼法」とは、これまで養蚕の現場で多く使われていた火力をなるべく使わず、風通しを良くした自然の気候でカイコを飼育する方法で、飼育日数こそ増えてしまいますが、失敗が少なく安定して生糸を生産できる方法として、徐々に主流へとなっていきました。

また、こうした技術の展開のみならず、自らカイコ種を携えてイタリアを訪れ、現地で直売を試みたと記録に残されています。

高山社跡

群馬県藤岡市にある「高山社跡(たかやましゃあと)」も、ユネスコ世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産です。

高山社は、別名「養蚕改良高山社(ようさんかいりょうたかやましゃ)」とも呼ばれており、その名が示す通り養蚕にかかわる研究が行なわれた研究機関の跡地です。

養蚕の研究者として活躍した高山長五郎(たかやまちょうごろう)が1884年(明治17年)に高山社を設立しましたが、それ以前には高山長五郎の自宅で研究が行なわれていました。世界遺産の構成資産に数えられているのはこの旧宅の方です。

歌舞伎パンダ

高山長五郎は、カイコの養育法「清温育(せいおんいく)」を確立した偉人でした。田島弥平によって確立された「清涼育」から発展したような技術で、外気の状態に合わせて温度管理と風通しを適切に管理する「清温育」を確立し、その普及に努めます。明治時代中期以降は、この「清温法」が養蚕技術の中心になりました。

群馬県藤岡市オフィシャルサイト 高山社跡
http://www.city.fujioka.gunma.jp/kakuka/f_bunkazai/takayamasya_ato.html

荒船風穴

かつてカイコを養育した「荒船風穴(あらふねふうけつ)」も構成資産のひとつで、群馬県の下仁田町に位置しています。

高山社で養蚕技術「涼温法」を学んだ庭屋親子によって作られたもので、1905年(明治38年)の第1号風穴完成から1913年(大正2年)の第3号風穴の完成まで長期間にわたって建造されました。

それまで養蚕は民家で行なわれることが多かったのですが、専用の設備として建造され、当時としては極めて大規模な施設として注目されました。荒船風穴では、環境を少しずつ変えた複数の風穴にカイコを貯蔵、時期を見て移動させることで、カイコの生育を管理していました。

下仁田町ホームページ 荒船風穴
http://www.town.shimonita.lg.jp/fuketsu/m01/01.html