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明治日本の産業革命遺産 高島炭鉱(たかしまたんこう)

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明治時代に入り、近代工業の面でも著しい成長を遂げた日本。そんな背景には、「黒いダイア」とも称されるエネルギーの源となった石炭、並びに石炭を採掘する人々の苦労がありました。長崎県に位置する高島炭鉱も、近代日本を支えた大きな炭鉱のひとつです。

日本の歴史を語る上でその重要性が評価され、2015年(平成27年)に開かれた世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして、ユネスコの世界遺産リストに登録されました。

高島炭鉱の歴史

現在の高島

高島炭鉱の歴史

長崎に属する島のひとつである高島。一節によると、平家の落人が島に渡り住んだという伝説もありますが、実際には江戸時代より前に住民がいたという記録は見つかっていません。江戸時代を迎え佐賀藩領となった高島には、1642年(寛永19年)に長崎港の警備を目的とした番所が置かれます。

石炭の発見

石炭
石炭

しばらくときは流れ、平戸藩領松浦郡江迎の領民、五平太(ごへいだ)によって石炭が発見されたのは1695年(元禄8年)のことでした。九州地方において石炭のことを「五平太」と呼ぶのは、この発見者の名前が由来とされています。

歌舞伎パンダ

1710年(宝永7年)ころには、当時高島を統治していた佐賀藩の支藩・深堀藩によって採炭が進められました。発掘された石炭は、伊万里や波佐見において盛んであった陶磁器を作るための燃料として、または四国・九州地方の製塩用燃料として利用されていたそうです。

本格的な炭鉱の始まり

その後、日本は激動の時代を迎えます。鎖国令により諸外国との交流が限られていた時代が終わり、開港された長崎には外国からたくさんの商人が押し寄せました。その中のひとりで、のちに日本での功績が讃えられることとなった商人がトーマス・ブレーク・グラバーです。アジアへの進出を図る欧米列強が、蒸気船の燃料補給拠点として長崎を利用するという点に目を付けたグラバーと佐賀藩藩主・鍋島直正は、1868年(明治元年)に共同経営で採炭事業を始めます。

トーマス・ブレーク・グラバー
トーマス・ブレーク・グラバー

高島炭鉱の開発にはイギリス人技師のモーリスが携わり、地表から渦を巻くように下に掘り下げていくという従来の方式「露天掘り」から、下に向かい垂直に掘る「竪坑」という方式が採用されました。翌1869年(明治2年)に深さ43m(一節には48mとも)で着炭し完成した、通称「北渓井坑(ほっけいせいこう)」は、日本初の洋式採炭法が使われた炭鉱と言われています。

旧来の技術を一新した北渓井坑では、坑外に設置された蒸気機関で動かした巻揚機で石炭を入れる箱を上下し、石炭を地上へと運搬しました。排水には蒸気ポンプを使い、坑外に置かれた風車は換気の役目を果たしていたとか。このようにして確立された石炭生産技術は、その後筑豊や三池炭鉱でも応用され、日本における炭鉱開発の基礎となったのです。

蓬莱社の失敗

岩崎弥太郎
岩崎弥太郎

1874年(明治7年)11月、高島炭鉱は約55万円で譲渡され、後藤象二郎(しょうじろう)が設立した商社「蓬莱社」の手に渡りました。このとき、蓬莱社は代金の即納分であった20万円を用意できず、イギリスの商社「ジャーディン・マセソン商会」から20万ドル(当時は1ドル=1円)を借り受けています。イギリスから来日した鉱山技師、エラスムス・ガウワーが炭鉱の近代化に尽力し、採炭は順調に進められるかのように思われました。

しかし、工夫48人が死亡するガス爆発事故や火災事故、さらにコレラの発生などが相次ぎ、思うように利益を上げることができず負債を返せない状態が続きます。1876年(明治9年)には、採炭業以外の事業においても負債などが膨らんだ結果、蓬莱社が倒産。倒産後もしばらくは後藤象二郎個人で高島炭鉱を保有していましたが、相変わらず借金を返すことができません。

この時点で、排水ポンプや巻揚機械を購入する際に再度借りた金額と利子分を含め、ジャーディン・マセソン商会への借金は110万ドルに膨らんでいましたが、1881年(明治14年)1月、ジャーディン・マセソン商会は後藤象二郎に対する債権を放棄。20万ドルの返済で合意し、その20万ドルは同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎が所有する三菱財閥が立て替えました。

結果として高島炭鉱は三菱の手に渡り、再建されていくこととなります。

三菱社による炭鉱事業

三菱の経営となってからというもの採炭は順調に進められ、日本のエネルギー経済を支えました。1890年(明治23年)に同じく三菱社が買収した、高島から程近い場所に位置する端島炭鉱と共に、良質な強粘炭が採掘される炭鉱として重宝されます。

歌舞伎パンダ
炭鉱
炭鉱

大正時代にはかつては離島であった上二子島、下二子島が埋め立てによって高島本島と陸続きになり、坑夫などが住む高層アパートが建ち並びました。

こうして栄えた高島炭鉱は、1966年(昭和41年)に採炭量のピークを迎え、年間153万9,500トンを記録します。

石炭から石油へ

石油
石油

第二次世界大戦後、日本でのエネルギー事情は急変。今まで石炭が使用されていた機械は、石油を動力とする物へと徐々に移行します。

そんな逆風の中、1985年(昭和60年)に起こった粉塵(ふんじん)爆発事故が決定打となり、翌1986年(昭和61年)11月27日をもって閉山。

苦労して作り上げた竪坑も1988年(昭和63年)に取り壊されました。

高島炭鉱事件

明治初期、高島炭鉱で働いていた人々による日本初の労働争議が勃発します。当時の高島炭鉱では、囚人や低所得者層の人々を労働力としていました。

一日12時間という過酷な労働条件のうえに賃金が低く、衣食住の面においても酷い待遇を受けます。さらに現場監督から受ける暴力や私刑などに耐えかね、官営時代を含めて約6回の暴動が起きたとか。1888年(明治21年)に発行された雑誌「日本人」では、体験者がこの労働実態を発表し、話題を呼びます。

高島炭鉱事件
高島炭鉱事件

その記事の中ではコレラにかかった労働者はまだ息があるにもかかわらず海岸で火葬にされたという悲痛な事実も暴露され、これは「高島炭坑事件」として大きな社会問題になりました。

現在の高島

高島は、九州北西部にある長崎半島の西沖合に位置しています。長崎汽船が運航する伊王島経由高島行きの高速船「コバルトクイーン」で長崎から約35分。

最盛期には、人口1万8,000人を超えていた高島ですが、島の主な産業であった高島炭鉱が閉山してからというもの人口は急減します。

こうして町の存亡の機を迎えた高島は、「石炭を魚にかえて島おこし」をキャッチフレーズに、周囲に広がる美しい海を活用する町おこしを島民一体となって進めました。

観光地への第一歩

高島フルーティトマト
高島フルーティトマト

1997年(平成9年)7月、島の北側に「飛島磯釣り公園」と「人工海水浴場」がオープンします。これを足がかりに、これまで年間3,000人程であった観光客が18,000人に増加。翌1998年(平成10年)には、遂に来島者が40,000人を超えます。

歌舞伎パンダ

さらに、海水浴場の隣には「ふれあいキャンプ場」が開設し、釣りと海水浴、キャンプが楽しめるレジャー施設として生まれ変わりました。

また、近年ではトマトの栽培が盛んに行なわれ、「高島フルーティトマト」と名の付いたブランドトマトは、その糖度の高さと果肉の厚さで好評だとか。なかでも糖度10度以上を誇る「ハートの女王」は高級トマトとされ、お取り寄せメニューや贈り物としても人気です。

世界遺産登録へ

このように高島は観光地として再生していく一方で、高島炭鉱は明治・大正・昭和のエネルギーを支えた遺構として、歴史的にも重要な役割を果たしたことは評価されるようになります。

2014(平成26年)年に高島北渓井坑跡は国の史跡に指定され、翌2015年(平成27年)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとして、世界遺産に登録されました。

高島炭鉱
高島炭鉱

登録が決定してからは、他の遺産と共に巡るツアーなどを利用して訪れる観光客も多いとか。新しい産業で街を活性化させていく一方で、再び注目を浴びることとなった高島炭鉱施設を活かした町おこしにも期待が高まっています。