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明治日本の産業革命遺産 旧集成館(旧鹿児島紡績所技師館)(きゅうしゅうせいかん)

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アヘン戦争後、日本の植民地化を防ぐために薩摩藩主であった島津斉彬(しまづなりあきら)が軍事力の強化のために取り組んだものが集成館事業です。

強い国づくりのためには、軍備だけではなく産業の育成も大切だと考え、製鉄、造砲、造船、ガラス、紡績、食品加工、印刷、電信、医薬、写真、ガスなど多岐にわたる事業に力を注ぎました。「集成館」と呼ばれる一帯は、まるで工業コンビナートのようで、この事業はまさに日本の近代化への第一歩。

中でも製鉄・造船にかかわる機械工場や反射炉跡、旧鹿児島紡績所技師館の3資産は、ユネスコの世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして、2015年(平成27年)に登録されています。

旧集成館の歴史

集成館で取り組んだ主な近代化事業

尚古集成館(旧集成館機械工場)

旧集成館の歴史

1840年代日本の南端を支配していた薩摩藩は、通商を迫るイギリスやフランスの激しい外圧にさらされます。島津斉彬が薩摩藩の家督を継いだのは1851年(嘉永4年)のこと。

西欧諸国のその巨大な軍事力を目の当たりにした島津斉彬が取り組んだ集成館事業とは、一体どんなものであったのか、振り返ってみます。

鎖国体制下での事業開始

島津忠義
島津忠義

集成館事業のはじまりは1852年(嘉永5年)、鉄製砲を製造するための反射炉の建設でした。「反射炉」とは、大砲を製造するために銑鉄を溶かして大砲の鋳型に流し込むためのものです。

歌舞伎パンダ

その後、反射炉周囲に鉄を供給するための溶鉱炉、大砲を仕立てるための台やガラス工場、蒸気機関研究所などが次々と造られました。しかし、反射炉が建てられたとき、日本はまだ鎖国体制下。外国の専門家や技術者を招くこともできず、西欧から必要な機材や材料を輸入することもできません。

そこで斉彬は、書物を通して西欧の最新技術を取得する方法を選びます。書物で得た知識が日本の在来技術と融合し、近代化が進められることとなりました。

これは非常に困難なことでもありましたが、のちに鎖国が終了し外国人技術者や機械類の導入が可能となったときに、西欧の機械をすぐに使いこなし知識の吸収もスムーズにできたそう。最盛期には藩内外から集まった技術者など1,200人もの人が働いていたと言われています。

日本各地の近代化と工業化

1853年(嘉永6年)のペリー来航を期に、日本各地で近代化・工業化の動きが加速します。しかし、幕府や他の藩が「富国強兵」の名のもとで軍事主体の近代化であったのに対し、集成館事業では軍事だけではなく紡績やガラスなどの民需産業による「富国」が特徴でした。

薩摩切子
薩摩切子

伝統の「薩摩焼」では、新しく開発した絵の具で西洋人が好むような鮮やかな模様を施します。ガラス産業のひとつである「薩摩切子」も当初から輸出を意識したものでした。また、インフラの設備も積極的に行ない、電信やガス灯などの社会的基盤設備にも力が注がれたことからも、斉彬の発想と行動力は並外れたものであったことが分かります。

藩の域を超えた技術供与

勝海舟
勝海舟

斉彬は1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結をめぐる議論の中、徳川幕府に建白書を提出しています。海防の備えが不十分なため、戦いを避けて締結するべきであるということを述べた上で、「第一人和、継テ諸御手当」とも説いています。これは海防の手当などよりも「人の和」が最も大切であり、人の和を生み出すために富国強兵策を取るようにとのこと。人々に豊かな暮らしを保障することで人は自然とまとまる、というのが斉彬の考えであったのでしょう。

また、斉彬は自分が築き上げた集成館を幕臣であった勝海舟や他の藩士らに惜しげもなく見せています。これは日本を強く豊かにするためには、他藩への技術供与も大切であると考えており、幕府や藩といった枠にとらわれていては、西欧に太刀打ちできないという考えが元であったと考えられます。

集成館のほとんどは1863年(文久3年)の薩英戦争で消失しましたが、様々な資料は藩外の地域に多数残されており、現在の展示品の多くは他藩の協力の上成り立っています。これも、斉彬が他藩へ技術供与をしてくれたお陰と言えます。

斉彬の死後

1858年(安政5年)7月、幕府に建白書を提出した2ヵ月後に斉彬は病気で急逝します。急激な西洋化の反動もあり「集成館事業」は大幅に縮小。さらに1863年(文久3年)に勃発した薩英戦争でイギリス軍艦隊の攻撃を受け、集成館は消失してしまいました。

島津斉彬
島津斉彬

しかし、この薩英戦争で集成館事業の必要性が再認識され、斉彬のあとを継いだ島津忠義が1865年(慶応元年)、新たに機械工場を建設。この機械工場は現在、国の重要文化財、そして「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の主要構成資産のひとつとして、世界遺産にも登録されています。

薩摩藩は、集成館事業により日本でも最高水準の技術・工業力を持つまでに至りました。その威力を発揮した薩摩藩は、長州藩と手を組んで幕府を倒し、明治新政府を樹立させます。そして、明治政府は斉彬の唱えた「富国強兵」をスローガンに、薩摩で培った技術力や工業力を全国各地へ伝えていくこととなりました。

集成館で取り組んだ主な近代化事業

集成館事業により、薩摩藩はより強く豊かな藩となりました。日本が近代化を遂げるための礎を築いた集成館の工場群。

中でも大砲鋳造に使われた「反射炉跡」や、イギリス人技師たちの宿舎であった「旧鹿児島紡績所技師館」は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の主要構成資産のひとつにも登録された先人たちの貴重な近代資産と言えます。こちらでは、集成館で取り組んだ主な事業をご紹介しましょう。

紡績事業

旧鹿児島紡績所技師館
旧鹿児島紡績所技師館

元々は薩摩藩の船の帆布を自給するために力を入れたという記録が残されています。1867年(慶応3年)には、日本初の西洋式機械紡績工場である「鹿児島 紡績所」が完成。イギリスから輸入した蒸気機関や紡績機械を備えた先駆的な工場で、ここで培った技術はその後、富岡製糸場や堺紡績所などに伝えられていきました。

1897年(明治30年)に工場は廃止され建物も取り壊されましたが、当時操業指導にあたっていたイギリス人技師たちの宿舎であり、通常「異人館」と呼ばれた「旧鹿児島紡績所技師館」は、国の重要文化財や世界遺産である明治日本の産業革命遺産のひとつとして、今も現存しています。当時の暮らしぶりを再現した部屋などがあり、見学することもできます。

大砲鋳造

西洋の技術書を参考に、鉄鉱石などを溶かす溶鉱炉、大砲の砲身を造る反射炉、砲身に穴を開ける台などを整備して大砲を造っていました。

中でも反射炉は当時の薩摩焼の技術を駆使し、西洋と日本の在来技術を融合して完成させた貴重なものだとか。かつては高さ16m程の煙突状の炉がそびえ立っていましたが、薩英戦争後は薩摩在来の石積み技術で精密に造られた石造りの基礎部分だけが残りました。反射炉跡の隣には復元された「鉄製150ポンド砲」もあり、こちらも見学することができます。

大砲鋳造
大砲鋳造

1897年(明治30年)に工場は廃止され建物も取り壊されましたが、当時操業指導にあたっていたイギリス人技師たちの宿舎であり、通常「異人館」と呼ばれた「旧鹿児島紡績所技師館」は、国の重要文化財や世界遺産である明治日本の産業革命遺産のひとつとして、今も現存しています。当時の暮らしぶりを再現した部屋などがあり、見学することもできます。

民需産業

薩摩切子
薩摩切子

海外への貿易振興を目的に輸出品の開発にも力を入れました。有名なものが透明ガラスに色ガラスをかぶせてカットした「薩摩切子」です。

また、あでやかな模様を施した「薩摩焼」はパリ万博で大絶賛され、ナポレオン3世にも送られたという記録もあります。

尚古集成館(旧集成館機械工場)

戊辰戦争後の1865年(慶応元年)に斉彬のあとを継いだ島津忠義により竣工された旧集成館機械工場。25馬力の蒸気機関やオランダ製工作機械を備え、船舶装備用の部品などを製造していました。

現存する最古の洋風工場建築物で、「ストーンホーム」と呼ばれる洋風建築が特徴。今では島津家の歴史や集成館事業に関する資料を展示する博物館となっており、建物自体も「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の主要構成資産のひとつとして、世界遺産に登録されています。