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明治日本の産業革命遺産 松下村塾

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山口県萩市に位置する「松下村塾」は、江戸時代末期に存在した私塾です。長州藩士・吉田松陰が教師として塾生を指導していたことでも広く知られており、明治維新において活躍した多くの逸材を生みました。

その功績は高く評価され、2009年(平成21年)に「九州・山口の近代化産業遺産群」のひとつとして世界遺産暫定リストに加えられたのち、2015年(平成27年)には正式に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として登録。数多くの史跡が残る萩の中でも、特に高い人気を誇るスポットと言えます。

松下村塾主宰・吉田松陰の生涯

明治維新の中心人物となった多くの人材を育てたことで知られる吉田松陰。幼少期から勤勉であった松陰は、アヘン戦争をきっかけに海外に目を向けると、次第に江戸幕府の政治に疑問を持つようになります。吉田松陰は、生涯を通して学ぶことの大切さを伝えるために尽力した人物でした。

本が好きな父のもとに生まれて

1830年(文政13年)8月4日、萩城から程近い旧松本村(現萩市椿東)で長州藩士・杉百合之助(ゆりのすけ)の次男として誕生。父・百合之介は下級武士で薄給であったため、畑仕事をして7人の子どもを養っていました。

しかし、父は大の読書好きで、草むしりや耕作などの農作業をしている最中は子どもに本を朗読させた程だったとか。1842年(天保13年)に松陰の叔父にあたる玉木文之進が私塾「松下村塾」を開くと、松陰も入塾。藩校「明倫館」は、武士階級のうち正規の武士身分を持った者しか入学を許されていなかったのに対し、松下村塾は身分を問わず塾生を受け入れました。

非常に教育熱心であった文之進の指導はとても厳しく、松陰が授業中に顔にとまった蚊を払って殴られたという逸話も。その甲斐あってか、松陰は弱冠11歳で当時の藩主・毛利慶親への御前講義で高い評価を受け、早くにその才能を認められます。

西洋兵学への興味

1840年(天保11年)からイギリスと清の間で勃発したアヘン戦争。その2年後、ついに清はイギリスに大敗します。

そのことは当時、清を強国と信じていた日本にとっても衝撃的な出来事であり、これは西洋列強の脅威に気付かされるきっかけとなりました。4歳の頃に山鹿流兵学師範であり叔父にあたる吉田大助の養子に迎えられ、兵学について学んでいた松陰は日本の兵器や戦法がもはや時代遅れであることを痛感します。

そこで松陰は、1850年(嘉永3年)西洋兵学を学ぶために九州に遊学を決意。松陰が20歳のことでした。そのあとも江戸に出て佐久間象山に師事するなど、熱心に西洋兵学を学び続けます。

しかしその一方で、1852年(嘉永5年)東北へ遊学を試みた松陰は、通行手形の発行を待たずに脱藩し士籍剥奪・世禄没収の処分を受ける他、その2年後の1854年(安政元年)には、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際、国禁を犯して黒船に乗り込み密航を企んだ罪で投獄されるなど、強引な方法で罰せられることもしばしばありました。松陰はついに地元での蟄居(ちっきょ)処分が下され、萩にある獄屋敷・野山獄に幽囚されることとなります。

松陰はそれでも学ぶことは止めず、仲間の囚人たちに孟子の講義をすると共に自らも俳諧や書を残しました。このときの逸話として、監視役の役人でさえも松陰の講義に耳を傾けたという話や、11ヵ月の獄中生活の中で松陰が読んだ本の総数は1,500冊にも及ぶという話が伝えられています。

1855年(安政2年)には出獄を許されたものの、実家に幽閉の処分を下されました。

松下村塾の塾長に

叔父・玉木文之進の仕官後中断されていた松下村塾は、松陰の母方の叔父・久保五郎左衛門によって引き継がれていました。

1857年(安政4年)11月5日には、ついに松陰がそのあとを継ぎ、松下村塾の主宰となって開塾します。はじめは杉家の敷地内の小屋を久保五郎左衛門と協力して改造した、わずか8畳1間の部屋で子弟の教育にあたりました。名簿が存在しないために正確な人数は分かりませんが、塾生は50人程であったと言われています。

より多くの塾生を受け入れるため、1858年(安政5年)3月に門下生たちの協力によって改築。このとき設計にあたったのは塾生の中谷正亮です。元々あった8畳1間の部屋に加え、4畳半1室、3畳2室、土間1坪、そして中二階が増築されました。松陰は松下村塾において、ただ物事を知り理屈を言うだけではなく、何事も実行することの重要性を説きました。

つまり、自分の持っている知識を使い今日本が抱える問題を解決するという「生きた学問」を大切にしていたのです。また、松陰は一方的に教えるだけではなく、弟子と意見を交わすことも大切にしていました。

再びの幽囚、そして処刑

こうして多くの塾生に慕われていた松陰ですが、1858年(安政5年)再び事件が起こります。

それは、幕府が天皇の許可なく日米修好通商条約を締結したことがきっかけでした。この幕府の行動に怒った松陰は倒幕を表明し、老中暗殺を計画します。しかし、賛同者が現れず計画は頓挫しましたが、幕府を痛烈に批判し続けていたことで藩から危険視され、再度野山獄に投獄されてしまいました。

翌1859年(安政6年)、日米修好通商条約の調印や将軍継嗣問題に反対した者たちが幕府によって弾圧された事件「安政の大獄」が起こります。これにより江戸に檻送されたのち取り調べを受けた松陰は、同年10月27日に伝馬町牢屋敷で斬首刑に処され、29歳の若さでこの世を去りました。

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松下村塾出身の偉人たち

若くして亡くなった松陰が門弟たちに指導した期間は、実家の幽囚室で教えた1年半を通算してもわずか2年半に過ぎません。

しかし、こうも松下村塾が今も語り継がれる程有名となったのは、ここから明治維新の原動力となった多くの逸材が輩出されたことによります。かつて松下村塾で松陰の教えを受けた主な人物は、以下の通り。

明治維新において活躍した偉人・松門四天王

・ 久坂玄瑞(くさかげんずい)…高杉晋作と共に「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」とも呼ばれた。薩摩・土佐・水戸の同志と尊王攘夷運動を推進。松陰の妹、文の最初の夫。

・ 吉田稔麿(よしだとしまろ)…脱藩して江戸に行き、幕府旗本妻木田宮の使用人となって幕府との間にパイプを築きつつ、尊王攘夷運動にも奔走。

・ 入江九一(いりえくいち)…下関において久坂玄瑞らと協力し、関門海峡を通航する外国船を砲撃。奇兵隊の結成においても補佐役として活躍した。

・ 高杉晋作(たかすぎしんさく)…風雲児とも称された逸材で、長州藩の倒幕運動の推進力となった。有志による奇兵隊を創設し、倒幕軍を勝利に導く。

明治新政府の首脳となった偉人

・ 伊藤博文(いとうひろふみ)…初代・5代.・7代・10代内閣総理大臣を務める。イギリスに留学した経験を活かし、得意の英語を使い明治新政府において数々の重役に就任。岩倉使節団のひとりとしても知られる。

・ 山縣有朋(やまがたありとも)…第3代・9代内閣総理大臣。日本陸軍の基礎を作った「国軍の父」と言われている。

・ 山田顕義(やまだあきよし)…初代司法大臣。戊辰戦争では討伐軍の指揮を取り、その才能は西郷隆盛のお墨付き。「小ナポレオン」とも称された。

・ 品川弥二郎(しながわやじろう)…第6代内務大臣。禁門の変、薩長同盟、戊辰戦争などと時代の変わり目となった出来事において活躍した。