ご希望の観光名所/旅行/温泉/レジャー情報を無料で検索できます。

施設検索/ホームメイト・リサーチTOP

旅探
観光名所/旅行/温泉/レジャー
トップページへ戻る
トップページへ戻る

明治日本の産業革命遺産 韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)

  • Increase Text Size
  • Increase Text Size
  • Decrease Text Size

山口県萩市に位置する「萩反射炉」と並び、国内に現存する反射炉として重宝されている「韮山反射炉」。

2015年(平成27年)7月に開かれたユネスコ世界遺産委員会において、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとして、世界遺産に登録されました。試験炉であった萩反射炉に対し、韮山反射炉は日本で唯一残っている実用反射炉であるという点でも、貴重な遺構として注目を浴びています。

韮山反射炉の歴史

現在の韮山反射炉

韮山反射炉の歴史

1842年(天保13年)8月29日、清がイギリスとの間で勃発していたアヘン戦争に敗戦し、このことは日本にも大きな衝撃を与えました。これまで長きにわたって鎖国体制を守り、列強諸国に対し強硬な姿勢でいた江戸幕府。

ところが強国と信じていた清がイギリスに敗れたことで、日本にも西欧の国々が進出してくるという危機感が生まれました。そこで、日本の幕府や各藩は諸外国から自らの領土を守るべく海防に力を入れ始め、武器の改良に着目したのです。

こうして、従来の物よりもさらに遠くに飛ばすことのできる西洋式鉄製大砲の製造が進められました。

江戸幕府直営の反射炉

大砲
大砲

そんな世相の中、当時の韮山代官であった江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)も国防について不安を抱いていました。そこで江川太郎左衛門英龍は、反射炉を建造し大砲を鋳造(ちゅうぞう)することの必要性について幕府を説得。

韮山反射炉は、その許可を得て建造に取り掛かったという、言わば「幕府直営の反射炉」なのです。

着工から完成まで

1853年(嘉永6年)、伊豆下田港に程近い本郷村(現下田市)において、反射炉の建築が着手されました。ところがその4割程度が完成した頃、下田港が開港場に指定されたため外国人の出入りが激しくなります。

反射炉
反射炉

そんな折にペリー戦艦の水兵が工事中の反射炉敷地内に進入するという事件が起きたため、急遽建設場所を韮山代官所にも近い韮山に移動。下田に集められていたレンガや石材なども韮山に運ばれ、やむを得ず改めて一からやり直すことになったそうです。この韮山の反射炉は1854年(安政元年)に着工し、同年の11月には南側の2基がほぼ完成していました。

ところが翌年の1855年(安政2年)、反射炉の完成を待たずして江川太郎左衛門英龍が病気のため死去。その後は長男の英敏が跡を継ぐと、幕府を通じてすでに反射炉を完成させていた佐賀藩の協力を要請します。

それを受けた佐賀藩からは、杉谷雍助(ようすけ)や田代孫三郎などの技師や職人数名が協力者として派遣されました。こうしてようやく着工から3年半の歳月をかけて1857年(安政4年)に韮山反射炉が完成し、1864年(元治元年)に幕府が江戸の小石川に新たに鋳造所を開設するまで、こちらで100門程の大砲が造られたそうです。

忘れられた反射炉

錐台
錐台

その後まもなくして明治維新が起こり、江戸幕府は終わりを迎えます。それに伴い、反射炉は陸軍省へと移管されることとなりました。

歌舞伎パンダ

敷地内にあった錐台(すいだい)などの機械は、造兵司令に引き渡されましたが反射炉が再び利用されることはなく、しばらく放置されていたため、次第に破損が進みます。そんな反射炉が再び注目を浴びたのは、1905年(明治38年)の英龍没後50年の節目のことでした。英龍の五男で最後の韮山代官でもあった江川英武の娘婿であり、東大法学部の教授を勤めていた山田三良(さぶろう)が中心となって保存修理事業が提案されます。

そのときからようやく日本における大砲製造の始まりの地として保存活動が進められ、1908年(明治41年)には陸軍省による補修工事が遂行。

その後、1930年(昭和5年)に発生した北伊豆地震によって北側炉の煙突上部が崩壊するなどの被害を受け、1957年(昭和32年)にその修繕が成されます。

そして、1985年(昭和60年)から1989年(平成元年)にかけては耐震の面やレンガの風化防止の処置などにも着目した、大規模な保存修繕工事が行なわれました。

国の史跡、世界遺産へ

韮山反射炉は1922年(大正11年)3月8日、内務省に移管されると同時にその敷地も含めて国の史跡に指定されました。

この頃、反射炉の維持・保存のために有志による「韮山反射炉保勝会」も組織され、山田三良が会長となっています。

韮山反射炉
韮山反射炉

その後、2007年(平成19年)には経済産業省により「近代化産業遺産」として認定され、さらに2015年(平成27年)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして世界遺産に指定。以来、世界における重要な遺産として大切に保管されています。

現在の韮山反射炉

静岡県の伊豆半島、伊豆の国市内に位置する韮山反射炉。すっかり観光地としても定着し、多くの観光客で賑わいを見せています。

現在、私たちが目にすることができるのは、幅5m、縦5.6m、高さ15.8mにも及ぶレンガ造りの2基の反射炉。かつて敷地内には、炭置小屋や鍛冶小屋、型乾燥小屋、細工小屋、そして敷地に隣接する韮山古川から引いた水を動力として、砲身をくり抜いていた錐台小屋などの様々な建物が存在し、それぞれ大砲を生産する工程を担っていたそうです。

反射炉のみならず、このように製砲工場として完成していた点でも、大いに見応えのある遺産と言えるでしょう。

韮山反射炉の特徴

韮山反射炉
韮山反射炉

他藩で造られていた反射炉と同じく、韮山反射炉もオランダ人ヒューゲニンによって著された「ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造(ちゅうぞう)法」という蘭書をもとに築かれました。

歌舞伎パンダ

溶解炉2つが繋がった造りの反射炉が2基並んで直角に配置されており、4つの溶解炉を同時に稼働させることができたとか。炉体の外側は伊豆の特産品である伊豆石の組積造。その他の素材の土は天城山麓から運ばれたと言われており、1,700℃もの高温に耐える良質の耐火レンガは賀茂郡梨本村(現河津町)に設けられた登り窯で生産されていました。

また、暴風対策として建築当時の煙突部分のレンガは漆喰で塗られていたと言われています。

充実した周辺施設

韮山反射炉に隣接する「蔵屋鳴沢」では、ご当地グルメのお土産などが販売されています。蔵屋鳴沢には、ユニークな体験プログラムもあり、お店が管理している茶園において4月下旬から6月下旬にかけては春の茶摘み、9月上旬から10月上旬にかけては秋の茶摘みが、またその他にも2月上旬から4月下旬頃にはいちごジャムつくり体験なども開催。特に茶摘娘の着物を着用して楽しめる茶摘みは人気だとか。

蔵屋鳴沢
蔵屋鳴沢

自分が摘んだ生茶の他にも、お店で製造された煎茶やオリジナルの手ぬぐいが付いてくる特典も魅力です。また、お店では「パン祖のパン」と名付けられたオリジナル銘菓も販売。これは、幕府に反射炉製造を訴えた韮山代官、江川太郎左衛門英龍によって作られた、日本で最初のパンを再現した商品です。当時は長期保存を可能にするため、水分がなく硬いパンに仕上げられていたそう。「飽きない味」として好評で、直営のネットショップで購入することもできます。

さらにもうひとつ、韮山反射炉周辺で出会えるお土産と言えば、「反射炉ビヤ」と名付けられた地ビール。反射炉近くの製造工場で作られており、ビールにはそれぞれ「太郎左衛門(江川太郎左衛門英龍)」や「早雲(北条早雲)」、「政子(北条政子)」、「頼朝(源頼朝)」など、伊豆にゆかりのある偉人から取られた命名もユニークで、思わず手に取る観光客も多いのだとか。

歌舞伎パンダ

良質な湧き水で造られる無ろ過・非加熱のクラフトビールは、活きた酵母の深い味わいから評判を呼んでいます。