ご希望の観光名所/旅行/温泉/レジャー情報を無料で検索できます。

施設リサーチ/ホームメイト・リサーチTOP

旅探
観光名所/旅行/温泉/レジャー
トップページへ戻る
トップページへ戻る

天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(長崎県)

  • Increase Text Size
  • Increase Text Size
  • Decrease Text Size

2018年(平成30年)、7月にユネスコ世界遺産に登録された「長崎の天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について詳しくご紹介致します。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産とは

原城跡

天主堂

平戸の聖地と集落

その他の集落

日本の世界遺産

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産とは

1549年にイエズス会の宣教師たちが来日し、日本にキリスト教が伝わりました。ところが、江戸幕府によって禁教令が出されると、キリシタンに対して厳しい弾圧が行なわれます。

日本全国のキリシタンは強制的に棄教させられましたが、そんな中でも長崎・天草地方には、密かにキリスト信仰を続けた「潜伏キリシタン」が数多くいました。

長崎・天草地方に残っている教会やキリスト教関連の施設は、彼らが250年もの長きに亘って、世を忍びながら信仰を守り続けたことを物語る貴重な遺産です。
では、「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」には、どのような歴史があるのでしょうか。

原城跡

「原城」(はらじょう)は、日本史上最大の反乱と言われる「島原の乱」の舞台となった城です。

島原・肥後両藩の領民にはキリシタンが多く、過酷な迫害と重税に苦しめられていました。凶作にもかかわらず厳しい年貢の取り立てが行なわれ、農民たちの怒りは極限に。天草四郎を総大将として蜂起し、廃城となっていた「原城」に一揆勢が立てこもったのです。
約4ヵ月に亘って幕府と戦闘を繰り広げましたが、一揆勢は全滅。

幕府は、再びろう城の拠点とされないよう、「原城」を徹底的に壊しました。「原城跡」の発掘調査では、人骨とともに、鉄砲玉を溶かして作った十字架が出土しています。

天主堂

黒島天主堂

江戸時代後期、外海や生月島から多くの潜伏キリシタンが、九十九島のひとつである黒島に移住してきました。

1897年、「黒島天主堂」(くろしまてんしゅどう)に着任したマルマン神父は教会の設計を手掛けただけでなく、教会内にある説教壇の装飾まで自ら行なったと言います。
信徒たちの献金と労働奉仕によって、レンガ造りの大きな教会が完成しました。

大浦天主堂

大浦天主堂
大浦天主堂

1864年、フランス人のために礼拝堂が建設されました。それが「大浦天主堂」(おおうらてんしゅどう)です。

翌年、日本で最初に殉教した日本二十六聖人のために「日本二十六聖殉教者堂」と命名し、献堂式が執り行なわれました。
そして、その翌月のこと、浦上の潜伏キリシタンが危険を覚悟で「大浦天主堂」を訪ね、プティジャン神父に信仰者であることを告白したのです。

250年にも亘って迫害され、宣教師もいない状況下で信仰を受け継ぎ守り続けたキリシタンが発見されたことは、世界中のカトリック関係者を驚かせました。
そして、この件は「信徒発見」と呼ばれ、世界の宗教史上でも奇跡のひとつと言われています。

外海地方の潜伏キリシタンの間では、1630年代より「バスチャン」という伝道師の予言が伝えられていました。
それは、「7代たてば神父が現れ、信仰を公にする日が来る」というもの。

予言によると、海の向こうからやってくるというその神父は「ローマ教皇から派遣されている」、「独身である」、「サンタマリアを敬愛している」とされていました。プティジャン神父がまさに予言通りの人物であったため、「大浦天主堂」の前に役人がいるにもかかわらず、キリシタンたちは、次々に信仰を表明したということです。

平戸の聖地と集落

中江ノ島

「中江ノ島」(なかえのしま)は、禁教初期にキリシタンの処刑が行なわれていたため、潜伏キリシタンたちにとって、殉教にまつわる聖地となり「サンジョワン様」などと呼ばれました。
生月島(いきつきしま)や春日集落の潜伏キリシタンは、洗礼などに使う聖水をくみ取る「お水取り」の行事をここで行なうようになったのです。

春日集落と安満岳

春日集落と安満岳
春日集落と安満岳

「平戸」は、1549年にフランシスコ・ザビエルが布教を開始した地です。領主であった松浦隆信に庇護され、平戸一帯で約5,000人が信者に。「春日集落」(かすがしゅうらく)の人々は昔から、「安満岳」(やすまんだけ)を神聖なものと考えていました。

キリスト教が伝わる以前から「安満岳」には神社仏閣があったため、仏教徒と宣教師が対立した歴史があります。

禁教令によって宣教師たちが国外追放されて支柱を失ったキリシタンたちは、表向きだけ改宗し、教義や祈りは「オラショ」と呼ばれる呪文を暗記して密かに唱え、口伝えに伝承されたのです。

「春日集落」では、自然崇拝や神仏信仰がキリスト教信仰と習合し、独自の発展をしていますが、こうしたケースが見られるのは「春日集落」だけではありません。「春日集落」の人々は禁教令が撤廃されてからもカトリックに戻らず、先祖から受け継いだ信仰様式を守り続けたということです。

その他の集落

天草の崎津集落

「天草の崎津集落」(あまくさのさきつしゅうらく)は漁業を生業としており、アワビの貝殻など生活に根ざした身近な物を信心具として代用する文化が生まれた地域です。

1805年、崎津周辺で潜伏キリシタンが5,000人以上いることが判明。長崎奉行所や江戸幕府に報告され、この摘発事件は「天草崩れ」と呼ばれています。
しかし、キリシタンとしてではなく「心得違いの者」と認定され、穏便な処置に留まりました。

1934年頃、集落の中心に「崎津教会」(さきつきょうかい)が建てられました。外観は洋風で内部は畳敷きというこの教会の敷地には、かつて庄屋屋敷が建っており、絵踏みが行なわれていたと言います。
ハルブ神父が資金を集めてここを買い取り、教会を建築したということです。

外海の出津集落(出津教会堂と関連施設)

外海の出津集落
外海の出津集落

1878年、「出津教会堂」(しつきょうかいどう)の司祭として赴任してきたド・ロ神父は、外海(そとめ)地区に住む人々の生活に衝撃を受けました。

海難事故や病気で一家の働き手を失った女性や捨て子が多く、非常に貧しかったのです。
そこでド・ロ神父は、出津救助院を建てたり、女性に仕事を与えて経済的自立をサポートしたりするなど、慈善事業に尽力。

ド・ロ神父が着任してから、潜伏キリシタンは徐々にカトリックに復帰していきました。

外海の大野集落(大野教会堂)

外海の大野集落
外海の大野集落

「大野集落」の潜伏キリシタンたちは、氏子となった神社に、密かに自分たちの信仰対象を祀っていました。集落内にある「大野教会堂」(おおのきょうかいどう)は、ド・ロ神父が自費を投じ、26世帯の信者の協力によって建設した教会堂です。

大野地区の信者たちは、出津教会堂までお祈りに行けなかったため、巡回教会という目的で建てられました。

地元の石を積み上げた外壁が特徴的で、通称「ド・ロ壁」と言われています。

奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

奈留島の江上集落
奈留島の江上集落

「奈留島」(なるしま)では、禁教の高札が撤去されても潜伏時代の信仰を維持するキリシタンが多かったと言いますが、「江上集落」(えがみしゅうらく)の4世帯は全員カトリックに復帰しました。
彼らが、キビナゴ漁によって蓄えた資金で建てたのが「江上天主堂」(えがみてんしゅどう)です。

谷間に開けたわずかな平地を利用して建てられました。

白い板張り壁に水色の窓枠というコントラストが印象的で、湿気を避けるために高床式になっています。

色ガラスを使ったステンドグラスが高価だったため、透明ガラスに信徒が手書きで花などを描いており、柱の木目模様も手書きで施されたものです。

頭ヶ島の集落

頭ヶ島の集落
頭ヶ島の集落

長く無人島であった「頭ヶ島」(かしらがしま)は、19世紀になると病人の療養地として利用されます。人の近づきにくい場所だったこの島に、開拓を目的として仏教徒の前田儀太夫が移住しました。
そして、儀太夫が開拓のために募って移住させた数家族が潜伏キリシタンだったのです。

「頭ヶ島天主堂」(かしらがしまてんしゅどう)は、長崎県を中心に多くの教会建築を手掛けた鉄川与助が設計・施工した、日本全国でも珍しい石造の教会堂です。

1日に2つか3つの石を運び、そして積み上げるという地道な作業によって石壁は作られ、約10年の長い歳月をかけて完成。
この辺りは石材に適した砂岩が広く分布しており、また、石材を使うことで建築費を抑えることもできたのです。

石造で重厚感のある「頭ヶ島天主堂」ですが、堂内の随所には椿を模した花装飾があしらわれ「花の御堂」という愛称もあります。

野崎島の集落

野崎島の集落
野崎島の集落

「野崎島」は平地が少ない土地です。そのため、迫害を逃れてこの地にやってきたキリシタンは、急な斜面を切り拓いて生活することに。

「野崎島」には、野崎・野首・舟森の3つの集落があり、そのうち野首と舟森が潜伏キリシタンの集落でした。
多いときで約650人が暮らしていましたが、高度経済成長期に過疎化が進み、2001年(平成13年)に無人島になっています。

1865年「信徒発見」の知らせを聞くと、「野崎島」の潜伏キリシタンは、大浦天主堂のプティジャン神父と連絡を取り、1867年に6人が大浦天主堂で洗礼を受けます。
しかし、当時はまだ禁教下であったため、これが役人に知られると、「野崎島」のキリシタン約50人全員が平戸へ護送されて改宗を強制する拷問を受けました。翌年、島へ帰ることが許されたものの、家財道具がすべて略奪されていたということです。

「野崎島」の中心部に立つ「旧野首教会」(きゅうのくびきょうかい)は、鉄川与助が設計したレンガ造りの教会です。教会の建設に携わった職人は、「彼らに3,000円(2億円相当)という大金を支払うことができるのか?」と心配したと言いますが、17世帯の信者たちが生活を切り詰め、力を合わせて費用を工面しました。

そして島の南に位置する「舟森集落」は、1845年、小値賀島(おぢかじま)の舟問屋である田口徳平治が外海を訪れた際に、海岸で祈る3人の男に出会ったことから始まりました。聞けば彼らは潜伏キリシタンで、翌日にも処刑されるとのこと。これを気の毒に思った徳平治が、彼らを船底にかくまって逃がし、舟森に住ませたと言われています。

久賀島の集落

久賀島の集落
久賀島の集落

「久賀島」(ひさかじま)の潜伏キリシタンは、江戸時代に外海地方から移住してきました。しかし、移住先はすべて農業に適さない土地で、自力で開墾するのが困難。

そのため、潜伏キリシタンたちは、仏教徒の水田の隣に新たな水田を開いたり、農業や漁業を協働で行なったりして、仏教徒との互助関係を築きました。

「信徒発見」をきっかけに、五島でも次々と信仰を表明する者が現れたため、江戸幕府から禁教政策を引き継いだ明治政府は、弾圧をはじめます。

棄教を拒んだ久賀島内の200人余のキリシタンを捕らえ、わずか12畳の牢の中に8ヵ月間に亘って押し込めました。飢え・病・拷問によって42名が亡くなっています。
この悲劇は「牢屋の窄事件」(ろうやのさこじけん)と呼ばれ、プティジャン神父によってヨーロッパへ伝えられると、各国から「信仰の自由を国民に与えない国は野蛮である」として、激しい非難を受けました。禁教令が平等な条約を結ぶための障害になっていることに気づいた政府は、やがてキリスト教を認めることになるのです。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
公式ホームページ

//kirishitan.jp/