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明治日本の産業革命遺産 三角西(旧)港

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宮城県の野蒜港(のびるこう)、福井県の三国港(みくにこう)と並ぶ、明治の三大築港のひとつである三角西港。

2015年(平成27年)7月のユネスコ世界遺産委員会において「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとして、世界遺産に登録されました。熊本県宇城市に位置し、日本で唯一明治の港湾施設がそのままの状態で残されている貴重な資産です。

三角西港の歴史

明治政府が産業開発のために国費を投じ1887年(明治20年)に開港。オランダ人の水理工師ムルドルによる設計と日本の石工技術により建設されました。

開港の歴史的背景

三角西港開港の背景には、当時日本一の出炭量を誇っていた「三池炭鉱」の存在があります。三池炭鉱は1888年(明治21年)三井に払い下げられたあと、アメリカで鉱山学や冶金学を学んだ団琢磨指揮のもと、急成長を遂げました。経営の近代化や合理化が進み、国内だけでなく中国へも積極的に輸出が行なわれた石炭。

しかし、そこには大きな問題がありました。三池炭鉱の直近の港であった当時の三池港は、干潮時に沖合数キロにわたって干潟が現れるため、大型船が着岸できない状況であったのです。そこで小型船を使い今の長崎県南島原市にある口之津港まで運び、大型船に移し替えて輸出を行なっていましたが、ここも干潮時は使い勝手が悪く、熊本県も産業振興のために新たな大規模な港が必要であるという考えから、港の選定がはじまりました。

港建設地の選定

元々熊本に港を作ることは、幕末の頃から熊本人の切なる願いであったと言われています。1880年(明治13年)、今の県知事である熊本県令富岡敬明宛に「百貫石」を開港場所とする「港湾修築建言書」を提出。1877年(明治10年)の西南戦争で荒廃していた熊本の復興になるだろうと考えた富岡は明治政府に支援を求めます。政府もこれを評価し、オランダ人水利工師であるローエン・ホルスト・ムルドルを派遣して百貫石の調査を行ないました。

しかし、ムルドルの調査により百貫石は船舶の出入りに必要である水の深さが確保できないことから構築は断念。代わりに浮上したのが宇土半島の西にある三角西港でした。三角西港が選ばれた理由として、以下のものがあります。

・山々に囲まれ風が少ない天然の良港である

・湾内の水の深さが120尺もあり、大型船も容易に出入りができる

・九州西海航路の要点に位置し、北九州や八代、鹿児島地方とも連絡しやすい このようなメリットがある一方、熊本から40キロ程度離れており、宇土半島は険しい山々が海に迫り、道らしい道が存在しないというデメリットもあったそう。

それでもメリットのほうが上回ると判断され、三角西港が建設地として選定される運びになりました。

三角西港の築港

三角西港の設計は、前述のオランダ人水利工師であるローエン・ホルスト・ムルドル、施工したのは小山秀が率いる天草の石工集団だとされています。この港の大きな特徴は、山を切り開き海を埋め立て、貿易港のみならず近代的都市を同時に建設したことと言えるでしょう。

1884年(明治17年)に着工し、まずは熊本三角間の道路を建設します。この道路工事は、三角西港築港工事を上回る大工事となりました。現在の国道57号は、基本的にはこのときの道路が改修されたものです。築港工事もほぼ同時にはじまり、1887年(明治20年)には完成。同8月15日には盛大な開港式が行なわれました。当時から石積みによる港は多くありましたが、全長756メートルもの高度で緻密な石積で形成された埠頭は圧巻。また、埠頭や側溝、排水路などは天草の石を使用しており、のべ13万人もの石工が従事したとか。

さらに、熊本監獄の囚人300人も労働力の一部として利用され、そのうち69人は事故などで犠牲になったという記録も存在しており、決して忘れてはいけない歴史のひとつと言えるでしょう。

三角西港の最盛期

1887年(明治20年)の開港後も航路標識や灯台などの整備が続きます。その前後に公共施設の整備も広がり1886年(明治19年)には警察署、1889年(明治22年)には税関、1890年(明治23年)には裁判所が設置され、1895年(明治28年)には宇土郡役所までもが三角西港へと移転します。

貿易面だけでなく近代都市として行政、司法の核施設を備えた三角西港はますます発展し、貿易港としての地位を築いていきました。開港から2年が経った1889年(明治22年)、明治政府は三角西港を国の特別輸出港に指定します。

三池炭鉱を経営する三井も事務所を設置し、口之津港の補助港として石炭を上海などに輸出。この頃が三角西港の最盛期でした。

三角西港の衰退

約10年間、宇土天草地方の経済の中心として栄えた三角西港ですが、この繁栄は長くは続きませんでした。台風や荒波により木造の浮桟橋がたびたび損傷し、船がうまく着岸できないときが多かったこと、三角西港利用料の値上げ、税関検査の手間などの理由で三井は1897年(明治30年)、より勝手の良い口之津港の再整備を選択します。 加えて1899年(明治32年)に九州鉄道が三角東港まで開通しましたが、地形上の問題から三角西港まで連絡されることはありませんでした。よって三角地区においては、三角東港の整備が進められる次第となり、その後1908年(明治41年)には三池港も開港します。これにより三角西港は石炭輸送の港としての役割を完全に終えることとなりました。三井の記録によると、三角西港からの石炭輸出は1901年(明治34年)が最後であるとされています。

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現在の三角西港

石炭輸送を目的とした港の役割は終えましたが、その後も熊本の貿易港として米などの輸送は盛んに行なわれていました。ところが、大正時代に入ると三角西港の積荷はさらに減少し、三角東港にすべての機能が移っていきます。

さらには物流だけでなく人口までも移動していきました。そのため三角東港は積極的に整備され続けましたが、三角西港が開発されることは一切ありませんでした。

しかし、これが功を奏し、明治時代の港湾施設がほぼ原型のまま残ることとなります。今回三角西港が世界遺産の明治日本の産業革命遺産として選定されたのも、当時の姿がそのままの形で残っている歴史的価値を評価されたのでしょう。

三角西港の見どころ

現在、三角西港は建造物の復元や整備が行なわれ、ユネスコ世界遺産の「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとして選ばれたことからも観光地として注目を集めています。中でも歴史的評価の高い見どころを紹介しましょう。

石積み埠頭

全長756メートルもの大きな石材を使って造られた石積み埠頭です。今もなお1887年(明治20年)に建造された原型のまま存在しており、120年以上も前の姿をとどめているのは三大築港の中でも三角西港のみだそう。石積みと水路は2002年(平成14年)に国の重要文化財の指定も受けました。

浦島屋

1887年(明治20年)頃に三角西港に誕生した旅館で、日露戦争直後に日本人宿泊施設として大連に移築されました。

設計図も残されていない幻の旅館とも言われていましたが、建築家の上田憲二郎氏が1枚の写真から透視図を作成。写真で分からない内部の間取りなどは、長崎市内にある旧グラバー園内の建物や宇土郡役所などを参考に設計され、1993年(平成5年)に熊本県により復元され、三角西港築港資料や写真を展示する歴史資料館として活躍しています。

旧宇土郡役所(九州海技学院)

1902年(明治35年)に造られた洋風建築の建物で、1986年(昭和61年)に三角町により修復、復元されました。内部は壁と天井が漆喰塗り、床は板張り。外観はモルタル塗りですが、当時の巧みな技術で石造り風に仕上げてあるのも見どころのひとつ。

2007年(平成19年)に国登録有形文化財に指定され、船舶職員を育成する海技学院として活用されています。