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明治日本の産業革命遺産 三池炭鉱・三池港(みいけたんこう・みいけこう)

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近代日本の急成長を支えた「製鉄」、「造船」、「紡績」といった近代工業。これらのエネルギー源として不可欠であったのが「黒いダイヤ」とも呼ばれる「石炭」でした。この石炭を供給し続けた日本最大規模を誇る炭鉱が三池炭鉱です。

2015年(平成27年)に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして、ユネスコの世界遺産リストに登録が決定した物件でもあり、日本のみならず世界中から注目を浴びる産業遺産と言えるでしょう。

三池炭鉱の歴史

石炭搬出のために造られた三池港

現在の三池炭鉱

三池炭鉱の歴史

福岡県の南端である大牟田市と隣接する熊本県荒尾市一帯に広がっていた三池炭鉱。重工業を支えた石炭産業の中心部であったはずが、エネルギー革命によりエネルギー源は石油へと転換。

これにより石炭産業は消滅してしまいました。この流れの中、地域がどのように変貌していったのか、歴史を見ていきましょう。

石炭の発見

石炭
石炭

三池炭鉱の石炭の発見はとても古く、15世紀後半であると伝わっています。江戸時代の中期に採掘がはじまり、亨保の時代は柳川藩、嘉永の時代は三池藩が採掘していました。これらは、瀬戸内の塩田で塩作りの燃料に使用されていたそうです。

歌舞伎パンダ

三池炭鉱の本格稼働

本格的に採掘が始まったのは明治に入ってからのこと。1873年(明治6年)に官営化され、外国人の指導を受けながら洋式炭鉱として発展しました。その後、1889年(明治22年)に三井に払い下げられ、炭鉱は急成長を遂げます。

歌舞伎パンダ
三池炭鉱
三池炭鉱

当初は囚人を主な労働力とし、初代事務長でありアメリカで鉱山学や冶金学を学んだ団琢磨指揮のもと「勝立坑」、「宮原坑」、「万田坑」の開削、三池港の築港などが進められ1944年(昭和19年)には、年間401万トンもの出炭を記録。炭鉱経営の近代化、合理化が進み、大正・昭和にかけて飛ぶ鳥を落とす勢いで出炭を続けました。

しかし、坑内の労働環境は劣悪だったようで、1907年(明治40年)、三池炭鉱を訪れた作家の北原白秋や与謝野寛らは自らの紀行文に「地獄にいるのだ」と表現しています。第二次世界大戦中には、石炭乾留工業を軸とした大牟田石炭コンビナートを形成。戦後は海底炭田の採掘が中心となり、大きな復興の力にもなります。大牟田市の人口20万人の1割近い人々が炭鉱に仕事を求めました。

その炭鉱労働者を目当てに、辺りにはたくさんの商店が立ち並び、学校などの公共施設までも整備され、1951年(昭和26年)には海底採掘のために人工島である「初島」が誕生。三池炭鉱は繁栄を築く一方のようにも見えますが、その裏側には度重なる暗い歴史も存在します。

繁栄に影を落とす暗い歴史

三池炭鉱のトロッコ
三池炭鉱のトロッコ

1959年~1960年(昭和34~35年)には、戦後最大の労働争議である「三井三池争議」が発生しました。エネルギー源が石炭から石油へと変化し始め出したこの頃、三井鉱山の経営は悪化する一方であり、そのため大量の人員削減を開始。組合側は長期のストライキで反発しますが、最終的には三池労組が分裂して敗北します。また1963年(昭和38年)には、戦後最大の労災事故と言われる「三川炭鉱炭じん爆発事故」が発生しました。

坑内で石炭を満載していたトロッコが外れて火花を出しながら暴走したことで大量の炭塵が坑内に蔓延し引火爆発。当時坑内には約1,400人の労働者が作業をしており、死者458名、一酸化炭素中毒患者839名という大惨事でした。

この事故によりさらに三池炭鉱の経営は悪化し、閉山を早めるきっかけになったとも言われています。

そして閉山へ

閉山は1997年(平成9年)。1973年(昭和48年)には、三井石炭鉱業に経営が移管されましたが、経営状況は悪化するばかりでした。ピーク時には年間600万トンを超えた出炭量は3分の1以下となり、従業員数も1,000人に減少。

歌舞伎パンダ
閉山
閉山

エネルギーの主役は石油に代わり、石炭の半額以下である輸入炭との競争に日本炭は敗北します。日本炭の保護のために行なわれていた国内電力会社による日本炭の引取りの保護政策も2001年(平成13年)を目処に打ち切られることとなり、この政策決定を受けて三池鉱山は閉山を決定。長い歴史に幕を閉じました。

石炭搬出のために造られた三池港

元々有明海は干潮時には沖合の数キロにわたって干潟が現れるため、大型船の来航が難しいと言われていた地形です。

そのため、石炭の搬出には河口から船で曳舟を行ない、対岸である口之津港などはるか長崎まで運んで大型船に積み替えられていました。そこで、石炭を効率良く搬出するために1902年(明治35年)に港の建設に着工。堤防工事、掘削工事や閘門設置工事を行ない1908年(明治41年)に開港されたのが三池港です。

船渠内の水位を干潮時でも8.5m以上に保てるよう「閘門」が設けられたことで1万トン級の船舶の荷役が可能となり、1905年(明治38年)には炭鉱専用鉄道が三池港まで延長され、以降は石炭の採掘から運搬、搬出まですべて一貫したスムーズな石炭運搬が行なわれるようになりました。

三池鉱山は閉山しましたが三池港は現在も稼働しており、稼働資産としても知られています。

現在の三池炭鉱

1997年(平成9年)に閉山した三池炭鉱ですが、近年日本の産業革命遺産として再度注目されています。1998年(平成10年)に国の重要文化財に指定された宮原坑や万田坑は、現在も保存されており、町おこしの核として全国から観光客が訪れるそう。

また2015年(平成27年)7月に、世界文化遺産として登録が決定した「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の23構成資産に現存する宮原坑や万田坑、三池鉱山専用鉄敷跡が含まれており、ますます注目を浴びる炭鉱遺跡となることでしょう。

三池炭鉱宮原坑(みいけたんこうみやはらこう)

三池炭鉱宮原坑
三池炭鉱宮原坑

三井が明治政府から三池炭鉱を払い下げられてから、初めて自社開発した炭鉱です。1898年(明治31年)に出炭を開始し、1908年(明治41年)には三池炭鉱全体の28%を占める43万トンを出炭。大正期には最大で51万トンを超える出炭量を誇り、1931年(昭和6年)の閉坑まで主力坑として大きな活躍をした坑口と言えるでしょう。

また宮原坑は積極的に「囚人労働」を行なっていた坑口としても知られています。炭鉱の労働力不足を補うために、全国的にも早い段階で設置された刑務所「三池集治監」からたくさんの囚人が採炭労働に使役させられ、この厳しい労働環境から「修羅坑」とも称されていました。現在は2台の巻揚機が現存するレンガ造りの巻揚機室や、鋼鉄製竪坑やぐらなどの施設を見学することができます。

三池炭鉱万田坑(みいけたんこうまんだこう)

1902年(明治35年)に出炭を開始した、宮原坑に次ぐ出炭量を誇った坑口です。団琢磨の努力により採炭技術の近代化が進められた三池炭鉱ですが、万田坑はイギリスやドイツなど外国製の機械をはじめ巻揚機や浴室、竪坑櫓などが良好な状態で残されているのが大きな特徴でしょう。

三池炭鉱万田坑
三池炭鉱万田坑

三池炭鉱専用鉄道敷跡

三池炭鉱専用鉄道敷跡
三池炭鉱専用鉄道敷跡

1878年(明治11年)、まだ三池炭鉱が官営であった時代に馬車鉄道として使われたのがはじまりです。その後、蒸気機関車の普及と共に線路は延長され、勝立坑や宮原坑、万田坑などを繋ぎ1905年(明治38年)には、三池港まで伸びたと言われています。現在、線路は撤去されていますが一部区間では枕木や踏み切り跡などが残されており、当時の姿を想像することができるでしょう。

また、三池炭鉱専用鉄道敷跡の最大の特徴はその形状にあります。重さのある石炭を重ねて走らせるため坂道では牽引しきれません。そのため線路は平坦な土地に敷こうと、地形が高いところは谷状に、低いところは盛土をして敷設していきました。

この形状は今でも残されており、とても珍しい貴重な資産だと言われています。三池炭鉱専用鉄道敷跡が世界遺産の構成資産のひとつに認定されたのは、この特殊な形状が炭鉱の歴史と意義を物語っているからなのかもしれません。