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明治日本の産業革命遺産 官営八幡製鐵所・遠賀川水源地ポンプ室

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明治維新以降、政府は日本の産業発展の基礎として「鉄の国産化」を目指し、官営の製鉄所の建設を行なうことを決定します。

そこで、国内初の鋼鉄一貫の近代製鉄所「官営八幡製鐵所」が誕生しました。石炭は地元の筑豊炭田から、鉄鉱石は海外から容易に入手ができたため、次第に規模も拡大していきます。

北九州では、この官営八幡製鐵所の操業開始を契機に国の基幹産業が集中し、工業都市として大きく邁進していくこととなりました。現在「官営八幡製鐵所旧本事務所」、「官営八幡製鐵所修繕工場」、「官営八幡製鐵所旧鍛冶工場」、「遠賀川水源地ポンプ室」の4つの資産が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として、世界遺産に登録されています。

官営八幡製鐵所の歴史

1901年(明治34年)の操業以来、一貫して戦前・戦後の鋼鉄界をリードしてきた八幡製鐵所。現在は、新日鉄住金の製鉄所として九州地区の自動車工場に高級鋼板を供給する他、アジアへの輸出拠点として世界トップクラスのシェアを誇る活躍を続けています。

製鉄所創立のきっかけ

八幡製鐵所創立の背景には、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争があります。戦争中、輸入に頼っていた兵器がことごとくシンガポールで留置状態となり、日本に兵器が渡ってこない状況に陥りました。

このことを受け、日本国内の軍備拡張のために世論は急激に製鉄所建設を求めるようになります。それまで議会は製鉄所の建設に反対し続けていましたが、1895年(明治28年)に衆議院が「製鐵所設置建議案」を可決。製鉄所建設に向けた取り組みがスタートすることとなりました。

鉄の時代

その後、日本は日清戦争に勝ち、多額の賠償金を手に入れます。近代化に向けて大型船や機械工場、鉄道などを建造していく中、鋼材の輸入量が急激に増加し国家の財政を圧迫していた背景もあり、明治政府はますます鉄の国産化の重要性を感じ、様々な建設候補地を絞っていました。

「八幡製鐵所80年史」に記載されている製鉄所の位置決定の条件として、以下のものがあります。

・軍事上、防御が安全な区域であること

・海上・陸上の交通に便利なこと

・原料供給に便利なこと ・職工の募集と工業用資材の供給に便利なこと

・製品の販売に便利なこと

この条件を満たし、当時日本で最大の石炭産出量を誇っていた「筑豊炭田」に隣接する福岡県遠賀郡八幡村(現在の北九州市八幡東区)に製鉄所の建設を決定。農地や塩田、海までも埋め立てて敷地を確保したと言われています。

そして1901年(明治34年)、国内初の鋼鉄一貫の近代製作所「官営八幡製鐵所」の高炉に火が灯り、日本産業史における新たなステージが始まります。

これにより日本の基幹産業は、軽工業から重工業へとシフトしていくこととなりました。

外国人指導者の存在

創業にあたり外国技術も多数導入されました。政府は鋼鉄の調査団をアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどに派遣し、各地の製鉄所を視察。

その結果、最も適していると判断されたドイツのグーテホフヌングスヒュッテ社に設計を依頼することが決定します。工場資材と装置・機械類も大半はグーテホフヌングスヒュッテ社から購入。自前の鉄がない時代であったため、設計や建設もすべて外国技術頼りで、1897年(明治30年)には10名の日本の技術者がドイツで実習を行なったという記録も残っています。

今も残る工場郡の柱の鋼材をよく見てみると、グーテホフヌングスヒュッテ社を示す「G・H・H」の刻印を見つけることができるでしょう。

また、外国人技術者もドイツ人を中心に技師3名、職工長・職工12名の計15名が採用されたという記録も残されています。

そして操業へ

1901年(明治34年)、日本初の大型溶鉱炉である「東田第一高炉」の火入れ式が行なわれました。東京から臨時列車が走り、園遊会や相撲大会まで催した盛大な雰囲気であったそう。しかし、肝心の出鉄はなかなかうまくいかず失敗続きで、稼働と休止を繰り返し安定した出鉄に至るまで、約3年もの年月を要したと言われています。

その後も拡張や度重なる改修を行ないながら、明治・大正・昭和と激動の時代の鋼鉄需要に応える八幡製鐵所。創業時に想定していた鋼材生産量が年間60,000トンであったのに対し、1910年の鋼材生産量が150,000トンを超えるものであった記録からも、どれだけ鋼鉄業をリードし続ける存在であったのかが分かります。

特に第2次世界大戦では日本の鋼鉄業の中心であったため、執拗に爆撃を受け大打撃を負ったものの生産を続け、戦後は合理化・近代化に努めました。元々官営であった八幡製鐵所は民営化など幾度かの変換を遂げ、現在は新日鐵住金の製鉄所として世界でもトップクラスのシェアを持つ鋼材の生産を続けています。

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現在の八幡製鐵所

現在も高機能鋼材の世界的シェアを守り続ける八幡製鐵所。日本最初の高圧高炉として建設された東田第一高炉は、1972年(昭和47年)の吹き卸しまで操業しました。現在は、実際に稼働していた10代目の高炉を見学することができます。

また、八幡製鐵所構内には官営八幡製鐵所創業の2年前に建設された赤レンガの旧本事務所や、修繕工場、旧鍛冶工場、そして福岡県中間市には遠賀川水源地のポンプ室など創業当時の建物が残されています。

しかし、現在も稼働する製鉄所の敷地内にあることなどから見学をすることはできません。これらは貴重な近代遺産であり、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として、世界遺産にも認定されています。

旧本事務所

1899年(明治32年)、八幡製鐵所の創業2年前に建設された中央にドームをもつ、左右対称の赤レンガ建造物です。

イギリス式のレンガ積みとなっており、中には顧問技師室、技監室、主計室、長官室などがあり、1922年(大正11年)まで本事務所として使われていました。その後は、鋼鉄の研究所や検査室としても活躍しましたが、現在は老朽化のため立ち入りが制限されています。

製鉄所の敷地内にあるため近くで見ることもできません。しかし、2015年(平成27年)7月に世界遺産登録が決定したことから、一目見たいという声に応え自治体は旧本事務所眺望スペースを完備。このスペースから世界遺産構成資産である「旧本事務所」を眺めることができるとあって、いつも多くの人で賑わっています。

修繕工場

1900年(明治33年)、八幡製鐵所の創業1年前に製鉄所で使用する機械の修繕や部材の製作加工、組み立てを行なう目的でドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社の設計と鋼材で建設されました。

日本国内最古の鉄骨建築物で、100年以上経つ現在も、修繕工場として活躍を続けています。建設当初はドイツ式の建物で使用鋼材もドイツのものでしたが、その後何度も増築される中で次第に日本のものへと変わっていきました。

日本の製鉄技術の発展過程が分かる、貴重な建造物と言えるでしょう。

旧鍛冶工場

修繕工場と同じく1900年(明治33年)、八幡製鐵所の創業1年前にドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社の設計と鋼材で建設された工場です。鉄骨造りの建物で、製鉄所の建設に必要な鍛造品などが製造されました。

建築当初は修繕工場の北側に位置していましたが、1917年(大正6年)に現在の位置に移築され、製品試験所として活躍を続けます。現在は、創業時の貴重な資料を保管する資料庫として使用されていますが、非公開のため見学することはできません。

遠賀川水源地 ポンプ室

1910年(明治43年)、製鉄所の拡張のため工業用水の確保が必要となり、八幡から11.4km離れた福岡県中間市に位置する遠賀川の東岸にポンプ室が建設されました。

イギリスから輸入した当時最新鋭の蒸気式ポンプと石炭ボイラーが使われ、近年の発掘調査では、敷地内からトロッコレールの跡や石炭卸場と思われる遺構が見つかっています。また、送水システムの設計を行なったのは、「近代水道の父」とも呼ばれる東京帝国大学教授の中島鋭治。

測量や現地工事には、東京や横浜などの各地の水道に携わったと言われる亀井重麿。建屋の設計は迎賓館や奈良帝国博物館を設計した舟橋喜一と、明治の土木工学の第一人者たちがかかわっており、このことからも当時の製鉄業の重要性がうかがえます。 その後、1950年代に蒸気から電気ポンプに取り替えられ、ホースも一新。外観のイギリス積みのレンガ造りは、アクセントに鉱滓レンガも使われとても意欲製の高いデザインが特徴です。

現在も創業当時の姿のまま、八幡製鐵所の鋼鉄生産のために約3割の工業用水を送水するという重要な役割を担っています。まるでポンプ室とは思えない程の美しい外観は、現在に至るまで長い間人々を魅了し続けています。

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