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石見銀山(島根県)

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2007年(平成19年)、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に「石見銀山遺跡とその文化的景観」が登録されました。ここでは、石見銀山について詳しくご案内します。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」とは

「石見銀山(いわみぎんざん)」とは、島根県の中心部、大田市にある日本最大級の銀山のことで、現在は廃鉱になっています。

銀山を中心とした約529ヘクタールの面積が世界遺産に登録されており、銀山の周辺に残る銀鉱山跡と鉱山町や街道、港と港町なども構成資産として含まれています。

現在は600を超える間歩(まぶ:鉱石を取るために掘った穴)があり、常時一般公開されている唯一の坑道跡「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」では、当時のノミの跡を見ることができます。

石見銀山

石見銀山ではかつて、かなり多くの銀が採掘されたと伝えられています。銀山の最盛期には世界にある銀のうち、3分の1が日本で産出したものだと言われていましたが、その大部分が石見銀山で産出されたものだったという程です。

なお、世界遺産には「石見銀山」として登録されていますが、日本では時代によって「大森銀山(おおもりぎんざん)」「佐摩銀山(さまぎんざん)」と呼ばれていたこともありました。

江戸時代には特に、この銀山で産出された銀が「ソーマ銀」と呼ばれ、貴重な輸出品として扱われてきました。

石見銀山世界遺産センター 公式サイト
http://ginzan.city.ohda.lg.jp/
大田市観光サイト
石見銀山ウオーキングミュージアム
http://www.ginzan-wm.jp/
施設情報はこちら

鉱山遺跡としてアジアで初の登録

鉱山遺跡は世界中に多くありますが、世界遺産として登録されたものは数える程しかありません。この石見銀山は、アジア地域で初めて世界遺産に登録された鉱山遺跡です。

なお、他に世界遺産に登録された鉱山遺跡としては、奴隷制度の象徴として「負の世界遺産」に数えられるボリビアの「ポトシ」、そしてチリの「スウェルの鉱山都市」があります。

ポトシはボリビア南部にあり、スペイン統治時代に金・銀が多く産出されたことから設立された都市ですが、労働力として多くの奴隷をアフリカから連れてきています。19世紀にはほとんどの金脈・銀脈が枯渇し、いつしか荒廃した都市になってしまいました。

一方、アンデス山脈の斜面に造られたスウェルの鉱山都市では、主に銅が採掘されましたが、やがて銅鉱脈が枯渇して活気が失われていき、住人がいなくなってしまいました。やがてこの鉱山都市はチリの国定史跡になり、2006年(平成18年)に世界遺産に登録されています。

また、新潟県佐渡市の鉱山遺跡「佐渡金山」も世界遺産への登録を目指しています。

石見銀山の歴史

日本の歴史上、石見銀山に関する記述は鎌倉時代の末期から見ることができ、そこでの銀産出は明治時代まで続きました。ここでは、石見銀山の歴史について順をおってご紹介致します。

石見銀山の発見

石見銀山の発見にかかわったとされる最初の人物は、鎌倉時代後期から南北朝時代に周防国(現在の山口県東南あたり)で活躍した武将、大内弘幸(おおうちひろゆき)だと伝えられています。

1309年(延慶2年)に大内は石見を訪れ、北辰妙見菩薩(ほくしんみょうけんぼさつ)の託宣(神のお告げ)で銀を発見したと伝説に綴られています。

その後、石見銀山で本格的な銀の採掘が始まったのは、大内の伝説からずいぶんと時代が経った1526年(大永6年)のことでした。

海上から山が光るのを見た博多の商人、神谷寿禎(かみやじゅてい/漢字については諸説あります)が、領主である大内義興(おおうちよしおき)と、出雲国(現在の島根県松江市あたり)の銅山主、三島清右衛門に協力を要請し、銀峰山(仙ノ山)の中腹で銀を掘り出すことに成功します。

銀山をめぐる争い

貴重な銀が産出すると分かれば、この銀山は闘争の原因になります。

時は戦国時代。大内義興の死後、子である大内義隆は九州に出兵し、長い闘いの末に北九州地域を平定しますが、その隙をついた格好で1530年(享禄3年)に地方領主、小笠原氏が銀山を奪ってしまいます。そして大内氏は、3年後になってようやく銀山を取り返すことに成功しました。

やがて1537年(天文6年)になると、出雲の尼子経久(あまごつねひさ)が石見に侵攻し銀山を奪います。大内氏は2年後になって再び銀山を奪い返しますが、その2年後には再び尼子氏が小笠原氏を使って銀山を占領し、銀山の争奪戦が続くことになります。

やがて大内義隆が亡くなると、大内家の傘下にいた毛利元就(もうりもとなり)が引き続き尼子氏と争うようになり、度重なる戦いを経て元就は勝利を収めました。

元就は、石見銀山を朝廷の御料所(朝廷の直轄地)として献上し、銀山が争いのもとになることを避けましたが、やがて1584年(天正12年)に毛利家が豊臣秀吉に服属するのと同時に石見銀山は豊臣家の管理地になりました。

石見銀山で産出された大量の銀は、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する際の軍資金になったと伝えられており、その後も長く豊臣家の財政を支える役目を果たしました。

石見銀山で成功した「灰吹法」

石見銀山で産出された銀には、海外から伝わった貴金属精製技術「灰吹法(はいふきほう)」が使われていました。

この灰吹法が日本で使われた初めての例が石見銀山だと長らく考えられていましたが、その後の発掘研究により7世紀後半の奈良県飛鳥京跡でもよく似た技術が使われていたことが分かっています。

「灰吹法」とは、産出した金銀鉱石を一度鉛に溶け込ませ、そこから金や銀を抽出する方法です。

石見銀山を支配した江戸幕府

徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利した1600年(慶長5年)に石見銀山を接収します。石見周辺の鉱山のある地域を幕府直轄領として定め、急速に銀山を開発していきます。

この頃が、石見銀山における銀産出のピークだと言われています。石見銀山で産出された銀は量が多く、また純度が高かったことから、南蛮貿易や中国との密貿易でも珍重されました。

石見銀山の終焉

隆盛を極めた石見銀山でしたが、徳川綱吉の時代には産出量が減り、ずいぶん深く掘らなければ銀が産出されなくなってしまいました。

やがて1866年(慶応2年)の第二次長州戦争、長州軍が石見銀山領を占拠し、江戸幕府による石見銀山の開発は終わります。

明治時代以降には、石見銀山は民間に払い下げられますが、地震によってしばらく休山になり、また銀の産出が減ったあとにはそれでも銅の産出が行なわれていたものの、鉱山の環境が悪くなり、思うように銅の産出もできなくなってしまいます。

そして1943年(昭和18年)、細々と採掘が続けられていた石見銀山を水害が襲い、鉱山としての役割を終えることになりました。

石見銀山の注目点

石見銀山

石見銀山は、単に規模の大きな銀山として存在しただけでなく、現在求められている「環境配慮」に繋がる注目すべき点があり、世界遺産登録の大きな要因になったと考えられています。

環境に配慮した鉱山開発

通常、鉱山開発には大量の薪が必要となるため、鉱山の周囲にある森林は伐採されるのが世界の常識でした。

しかし、石見銀山では森林の管理が適切に行なわれており、環境への負荷が少ない鉱山開発が行なわれたとされています。

ユネスコ世界遺産に石見銀山が登録される際には、現在求められている環境配慮の先進的な取り組みが行なわれていたことも評価されています。

鉱山町、街道、港など

ユネスコ世界遺産に登録された構成資産には、石見銀山そのものだけでなく、代官所跡や銀山防衛のために建てられた城跡、当時の住宅なども含まれています。

また、銀の輸送に使われたと伝えられる街道や、銀の積み出しに使われた港と港町も資産として数えられています。