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姫路城(兵庫県)

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兵庫県姫路市にある日本を代表する城郭のひとつです。 天守閣などの主要建築物が現存していることから一般的には「姫路城」として親しまれています。ユネスコの世界遺産に登録されている他、国宝や重要文化財、特別史跡、 日本100名城など、歴史的価値のある史跡・建築物として認められています。

現存する貴重な城、姫路城

姫路城は1346(貞和2)年に築城され、その後何度か増築改修が行なわれた城です。姫路駅北方にある小高い丘に位置し、天守閣からは市街を見下ろすことができます。

日本の観光地の中でも特に人気が高い史跡のひとつで、毎年多くの観光客が訪れています。 また、日没から午後10時まで毎日ライトアップがされています。

城としての美しさは国内外に知られ、フランスのシャンティイ市にあるシャンティイ城とは「姉妹城」の提携を結んでいます。

名前の由来「姫路城」「白鷺城」

「姫路城」という名前は、城が建つ土地の古名が由来していると伝えられています。姫路城の天守閣がある姫山(ひめやま)は古く「日女地(ひめじ)の丘」と 呼ばれていたことから、この名前になったとするのが通説です。また姫路城は、天守閣群の白く美しい姿が白鷺の飛ぶ様に見えることから別名として 「白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)とも呼ばれています。

建築物としての特徴

姫路城 時代の経過に合わせて増改築が数回行なわれた姫路城は、その時代時代の建築様式の特徴がいくつか見られます。城のタイプとしては平野の中にある小高い山や丘に建てられた「平山城」と呼ばれる物です。個性的なのは、その縄張です。堀を堀削して3つの曲輪に区分し、城を中心に「内曲輪(うちぐるわ)」、「中曲輪(なかぐるわ)」、「外曲輪(そとぐるわ)」が左回りのらせん状の堀で区画されています。そして、城下町全体を堀と土塁で囲む「総構式(そうがまえしき)」の城下町が作られていたのです。

姫路城に伝わる逸話、出世城・不戦の城

姫路城には「白鷺城」という別名がありますが、他に「不戦の城」と呼ばれることもあります。「不戦の城」とは、姫路城で発生した幾つかの危機でも無事に城が残ったことからです。幕末の時代、城主の酒井氏が政府側に付いていたことから、新政府軍によって姫路城が包囲されたことがありましたが、留守を預かっていた家老の機転で無血開城になりました。そして第二次世界大戦時には姫路城の天守閣を焼夷弾が直撃しましたが、幸いにも不発弾であったため大規模な被害を逃れました。

姫路城に深くかかわった人物

姫路城は、時代の移り変わりとともに城主が変わり、江戸幕府成立以前でも18人の城主が名を連ねています。ここでは歴代城主の中でも、特に姫路城に深くかかわった人物を紹介致します。

赤松貞範

姫路城を築城した初代城主が、赤松貞範です。鎌倉時代から南北朝時代の武将である赤松貞範は、南北朝時代には北朝側に味方して活躍し、室町幕府の成立に尽力したと伝えられています。恩賞として播磨(兵庫県南西部)の所領を与えられた赤松貞範は、1346(貞和2)年に姫路城の基礎となる城を築いたと歴史に残されています。

黒田重隆

戦国時代の武将である黒田重隆は、君主である小寺政隆から城を預けられ12代目の姫路城城主になります。記録では1545(天文14)年に入城しており、この頃までの姫路城は小規模な城だったとされています。

羽柴秀吉

秀吉像

羽柴秀吉が織田信長の命を受けて中国地方を攻めていた折、播磨では小寺氏が攻め滅ばされましたが、その家臣だった黒田氏は羽柴秀吉に仕えることになりました。このときに羽柴秀吉が15代目の姫路城城主になっています。羽柴秀吉は1580(天正8)年から姫路城の大改修を行ない、石垣を作って城の防御を硬め、天守閣を建築するなど、本拠地として申し分ないよう姫路城の機能を拡充させます。

池田輝政

姫路城18代目の城主である池田輝政は、羽柴秀吉に仕えた武将です。しかし秀吉の没後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦い及び前哨戦である岐阜城攻略では徳川側で功を挙げ、その恩賞として初代姫路藩主に就くことになりました。

1601(慶長6)年からは姫路城の大規模な改修に着手し、周辺の河川開発も含めて地域の安定に努めます。現在残る姫路城とその周辺の姿は、この池田輝政によって成し遂げられたことから、後世になって「姫路宰相」と呼ばれるようになります。

各時代における姫路城

南北朝時代から現在まで、歴史の移り変わりがあっても存在し続けた姫路城。重要な拠点のひとつとして各時代の歴史で登場しています。戦乱の時代にあっても戦火の被害を受けていないことも姫路城の特徴です。

南北朝時代から戦国時代

南北朝時代に建てられた初期の姫路城は、「城」と呼ばれる程大規模なものではなく、「大きな住居」程度のものだったと伝えられています。戦国時代に入り黒田重隆が姫路城の城主になった頃には軍事拠点としての重要度が高くなり、1555年(天文24)から1561年(永禄4)の間に改修が施されました。この頃に姫路城はようやく城らしい規模になり、城下町には下級武士や職人などを住まわせるようになって、情報収集なども行なわれるようになったと伝えられています。

安土桃山時代

勢力を伸ばす織田信長の命を受け、羽柴秀吉が播磨地方に進軍してきますが、当時の姫路城城主である黒田孝高は秀吉に仕え、姫路城を明け渡しました。秀吉は本拠地として姫路城を改修し、城壁を作るなど城としての防御力を高めていきます。
その後、秀吉は明智光秀を討って天下人へと成り上がっていき、本拠を大阪城に移したため、姫路城の城主は秀吉の弟や家臣などが受け継いでいきます。やがて秀吉が没し、関ヶ原の戦いが勃発しますが、姫路城は直接的な戦乱の舞台になることはありませんでした。

江戸時代

江戸時代初期、池田輝政が播磨姫路藩の初代藩主に就きましたが病気で急死(秀吉の呪いとする説もあります)してしまいます。藩主は長男の光政が継ぎましたが、まだ幼少であったことから転封されてしまい、本多忠政が入城します。この頃、本多忠政が西の丸を増築したことで姫路城はほぼ現在の姿になったと伝えられています。

また1656(明暦2)年には主要な柱などの補修が行なわれています。時が過ぎて江戸時代末期、姫路城主の酒井氏は徳川家に付き新政府軍と争う立場にありました。史実では新政府軍1500名が姫路城を取り囲み、あわや攻城戦の戦火が及ぶかと危惧されましたが、留守を預かっていた家臣は争うことなく開城し、姫路城は難を逃れることができたのです。

近代

1873(明治6)年に「廃城令」が出されます。姫路城も不要として競売に出され、城下町に住む神戸清一郎がこれを落札しました。しかし神戸氏が姫路城を落札した直後、陸軍省によって再び買い上げられ、姫路城は陸軍の拠点として使われるようになります。

廃城令からやがて、貴重な城を保存しようとする動きが活発化していき、姫路城の大規模な修理が行なわれることになりました。1910(明治43)年から行なわれたこれらの工事は「明治の大修理」と呼ばれています。当時の姫路城は荒れた状態だったと言われています。

その後も陸軍の拠点として姫路城は使われ続けますが、陸軍が使用しない一部の城域を姫路市が借り、一般公開を行なうようになります。

1928(昭和3)年に姫路城が史跡に指定され、文部省の管理下に置かれるようになりました。1931(昭和6)年には天守閣などの一部が国宝に指定されるなど、史跡としての重要度が広く認められます。