観光施設(旅行)ホームメイト・リサーチ

観光施設(旅行)ホームメイト・リサーチ

ご希望の観光施設(旅行)を無料で検索できます。

明治日本の産業革命遺産 橋野鉄鉱山・高炉跡

  • Increase Text Size
  • Increase Text Size
  • Decrease Text Size

岩手県釜石市橋野町に位置する橋野鉄鉱山・高炉跡は、江戸時代末期に鉄を生産するために使用された高炉の跡地です。

日本で初めて作られた洋式高炉としてその価値が評価され、2015年(平成27年)に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界遺産登録を受けました。

近代化が進む時代において鉄はなくてはならない物資であり、日本の近代工業に大きく貢献した遺構です。

橋野高炉の歴史

開国を迫る外国船が日本へと押し寄せた幕末、日本は海防の強化がもっぱらの課題となっていました。陸を守るには外国船を撃退する大砲の製造が必須であり、そのためには強度の高い鉄の製造が求められます。

従来日本では、鉄とは「たたら製鉄」という方法で砂鉄を原料として作られていましたが、西洋では鉄鉱石を還元して鉄を取り出す技術が使われており、そうして作られた鉄の方が強度は優れていました。この技術を「製銑(せいせん)」と呼び、製銑のためには高炉や電気炉といった施設が必要だったのです。

日本でもこの技術を取り入れていくなかで、いち早く鉄鉱石から鉄を取り出すことに成功したのが盛岡藩でした。近代、日本は世界有数の製鉄国となりましたが、橋野高炉はその始まりの地と言えるでしょう。

日本で初めて製銑に成功した高炉

江戸や長崎において蘭学や砲術などを学んだ経歴を持つ盛岡藩出身の大島高任(おおしまたかとう)は、水戸藩からの要請を受けて大砲の製造にあたっていました。高任はより優れた強度を持つ鉄を精製するために、鉄鉱石が豊富な北上山中において高炉の建設を決意。ヒュゲーニン著の『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を参考として洋式高炉の建造を進めます。

実はそれ以前に、鹿児島の集成館は1854年(安政元年)、函館の古武井には1857年(安政4年)にそれぞれ洋式高炉が作られていましたが、製銑の成功には至っていませんでした。そんな折、1857年(安政4年)に高任によって築かれた大橋地区の洋式高炉で鉄を取り出すことに成功。翌1858年(安政5年)12月には、大橋から7キロ程北にある橋野へと場所を移動し稼働させました。

水戸の反射炉閉鎖

こうして製銑された銑鉄は、1858年(安政5年)1月に水戸藩の那珂湊(なかみなと)へと運ばれました。那珂湊に建造されていた2基の反射炉で溶解された橋野の鉄は、早速モルチール砲3門、カノン砲1門の鋳造に利用されます。

さらに1858年(安政5年)4月には、2,700貫もの鉄が橋野から那珂湊へと送り出され、これにより3寸径カノン砲3門を鋳造しました。 こうして鋳造作業は順調に進められていましたが、橋野高炉の存亡をも危うくする事件が勃発。

それは、水戸藩藩主・徳川斉昭の失脚です。攘夷派の斉昭は、開国派の井伊直弼と将軍継嗣問題などで対立していました。

安政の大地震で側近のブレーンを失ったうえに、老中首座であった阿部正弘の死去により開国派の堀田正睦が老中首座に着任するなどの不運に見舞われ、遂に斉昭は政争に敗れてしまいます。1858年(安政5年)、晴れて大老となった井伊直弼は日米修好通商条約に独断で調印し、このことに対し斉昭や越前藩主・松平慶永(まつだいらよしなが)、尾張藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)、そして斉昭の息子でありのちの徳川15代将軍となる一橋慶喜らは江戸城へと出向き、井伊直弼を責め立てました。

しかし反対に、無断登城を咎められ水戸の屋敷での謹慎処分を受けます。さらに翌年の1859年(安政6年)、安政の大獄によって水戸での永蟄居を命じられ、政治的権力を完全に失うに至りました。そんな斉昭のもとで稼働していた大砲造りも当然停止し、水戸の反射炉も閉鎖。これにより、橋野高炉で作られる鉄は行き場を失ってしまいます。

その後の橋野高炉

1859年(安政6年)、橋野高炉は南部藩直営となり、翌1860年(安政7年)には1番高炉と2番高炉の2座を建設。さらに最初に作った仮の高炉も改修し、これを3番高炉とします。水戸の反射炉が閉鎖してからというもの、大砲に替わる鉄の使いみちは鋳銭(じゅせん)でした。各藩が設けた銭座と取引をしていましたが、1868(明治元年)には橋野にも銭座が開設。

今までよりも多くの鉄が必要とされたこの年の年間出銑量は30万貫(約1,125トン)を記録し、最盛期を迎えます。稼働した人は約1,000人、動物は牛100頭と馬50頭にも及んだとか。

しかしそんな時代も長くは続かず、1869年(明治2年)には明治政府による鋳銭禁止令が発布。これに逆らいしばらくは密造が行なわれますが2年余りで密造が発覚し、銭座は廃座になります。

このとき、1番高炉と2番高炉は操業をやめ、3番高炉のみの操業となりました。やがて釜石の臨海部に本格的な製鉄所「釜石鉱山田中製鉄所」が操業を始め、橋野高炉はこちらに吸収されましたが、残った橋野の3番高炉も1894年(明治27年)栗橋分工場の完成を機に、長年日本の近代鉱業を支えた火を消すこととなりました。

日本近代製鉄の父・大島高任

大島高任は1826年(文政9年)5月1日に、南部藩(盛岡藩)の藩医であった父・大島周意の長男として生まれました。

1842年(天保13年)、高任は17歳で江戸へと出向き、箕作阮甫(みつくりげんぽ)や坪井信道(つぼいしんどう)から蘭学を教わり、その後長崎では兵法・砲術・精練などを学びます。帰藩後は盛岡藩の御鉄砲方として西洋砲術を教えましたが、新たな知識を得るため1852年(嘉永5年)再び江戸へ。

さらに兵法・砲術の知識を深めた高任は、水戸藩からの招へいを受け、1856年(安政3年)水戸藩那珂湊にて反射炉による大砲の鋳造に成功しました。しかし、このときに砂鉄を原料とする大砲には強度が充分ではないことを思い知り、盛岡藩甲子村大橋に洋式高炉を建設。1857年(安政4年)、大橋の高炉において日本で初めて鉄鉱石から鉄を取り出すことに成功します。

その後も藩内外で鉱山開発に奔走しつつも、私塾「日新堂」を通してその技術を広めました。維新後は明治新政府からもその技術を高く評価され、岩倉使節団にも随行するなど活躍の場を広げます。

1890年(明治23年)、日本鉱業会の初代会長に就任。鉱業界の発展における第一人者として、「日本近代製鉄の父」とも称されています。

施設情報はこちら

橋野鉄鉱山・高炉跡の評価

1955年(昭和30年)、岩手大学名誉教授であり日本の歴史学者である森嘉兵衛は橋野高炉の発掘を開始し、歴史的価値のある遺構として注目されることとなりました。

橋野鉄鉱山・高炉跡は、鉄鉱石採掘場や運搬路、そして高炉場に至るまでの製鉄工程を総合的に把握できる貴重な遺跡であり、各所に遺構が保存されています。

こうしたことを受けて1957年(昭和32年)6月3日には、日本に現存する最古の洋式高炉跡として国の史跡に指定。これを記念し、「日本最古溶鉱炉記念碑」と刻まれた石碑が建てられました。

また1984年(昭和59年)には、アメリカ金属学会から歴史遺産賞が贈られるなど、世界的にも一目置かれる遺跡の仲間入りを果たします。そして遂に2015年(平成27年)には、明治日本の産業革命遺産の一部として、世界遺産登録に至ったのでした。

現在の橋野高炉跡

現在、私たちが目にすることのできる高炉跡は、1辺は約5メートル、高さ約2.5メートルの大きさで、大きな花崗岩(かこうがん)が何段も積み上げられて四角い形を成している遺構です。

かつてはこの内側に耐火レンガが積まれ、高さ7メートル、直径1.3メートルの炉が築かれていたとか。1番高炉から3番高炉の遺構がすべて残っており、周囲は当時さながらの豊かな自然が保たれていることも、この遺跡の魅力のひとつでしょう。