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明治日本の産業革命遺産 端島炭鉱(軍艦島)(はしまたんこう(ぐんかんじま))

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「端島炭鉱(はしまたんこう)」とは、2015年(平成27年)に開かれた世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとしてユネスコの世界遺産リストに登録された物件です。

通称「軍艦島」としても親しまれ、激動の時代を物語る歴史的観光地としても高い人気を誇り、明治日本の産業革命遺産のなかでも最も知名度の高い施設のひとつとも言えるでしょう。

端島の歴史

観光地「軍艦島」としての現在

軍艦島を世界遺産へ発案から登録まで

端島の歴史

石炭の発見

石炭
石炭

長崎港から約17.5km南西に位置する端島で最初に石炭が発見されたのは一般的に1810年(文化7年)のこととされています。

歌舞伎パンダ

実際には、それ以前から近隣住民によって端島やその隣に位置する中ノ島、そして現在は埋め立てにより高島の一部となった下二子島で採炭が行なわれていたという記録もありますが、長崎の業者による本格的な採炭が始められたのは1869年(明治2年)のことでした。

先頭をきって事業に着手した業者の廃業後、他3社もの企業が名乗りを上げ採炭事業に取り掛かりますが、大風(おおかぜ)などによる自然災害のために相次いで断念することとなります。

このような苦労を経て、1887年(明治20年)に44mまで開削された第一竪坑が完成します。

三菱社へ譲渡

1890年(明治23年)、端島炭鉱は当時の所有であった鍋島孫太郎によって10万円で三菱社に譲渡されました。以来、蒸留水機が設置され飲料水の配給や、私立(社立)尋常小学校の開校など、居住環境の整備が進められます。

当初は採炭が盛んであった高島の支坑として考えられていた端島でしたが、1895年(明治28年)に第二竪坑、1896年(明治29年)に旧第三竪坑がそれぞれ完成し、ついに1897年(明治30年)には端島の出炭量が高島炭鉱を抜くこととなります。

端島炭鉱
端島炭鉱

その後、1897年(明治30年)から1907年(明治40年)にかけて5回もの埋め立てが行なわれ、1916年(大正5年)には日本最古の鉄筋コンクリート造アパート30号棟が完成し、翌年には送電が開始されるなど、端島炭鉱は最盛期に向けて栄えていきました。

また、「軍艦島」の呼び名は、大阪朝日新聞が端島を二本煙突の巨大な軍艦に似ていると報道したことや、長崎日日新聞が軍艦土佐に似ているとして紹介したのをきっかけに、この頃から使われ始めます。

昭和の最盛期へ

端島炭鉱
端島炭鉱

昭和に入ってからは6回目となる埋め立てが行なわれ、社船「夕顔丸」の運行が開始します。さらに1934年(昭和9年)には深さ636mにも及ぶ第二竪坑の掘り下げに成功しました。

そして、1941年(昭和16年)には石炭出炭量が最盛期を迎え、年間生産41万1,100トンの最高出炭を記録。また、1927年(昭和2年)に開館した映画館「昭和館」をはじめとし、幼稚園や小中学校などの教育機関、商店、病院や寺院、パチンコ屋や雀荘、社交場などの娯楽施設が揃い、島内の居住環境はほぼ完成していました。そんななか、1960年(昭和35年)には人口が最盛期を迎え、当時5,267人もの人々が住んでいた端島は83,600人/kmという人口密度をたたき出し、これは東京を優に超し世界一を記録しています。

エネルギー革命、そして閉山へ

このように繁栄していた端島炭鉱でしたが、1950年代に中東やアフリカで大油田が発見されてからというもの世界のエネルギー事情は変わり、日本においても第二次世界大戦後にはエネルギーの主役は石炭から石油へと徐々に移行していきます。1962年(昭和37年)の「原油の輸入自由化」などの影響もあり、1974年(昭和49年)1月15日、ついに端島抗は閉山することとなり閉山式が挙行されました。

閉山
閉山

同年3月31日には端島支所、各施設、小学校や中学校も閉鎖し、4月20日には閉山時に端島に居住していた2,000人全員の離島が完了し、無人島となり今に至ります。

観光地「軍艦島」としての現在

閉山後の端島は、2001年(平成13年)に三菱マテリアル株式会社から高島町に無償で譲渡されたことをきっかけに再び新たな役目を果たすための取り組みが始まります。

所有権はその後2005年(平成17年)高島町と合併した長崎市へと移り、同年の8月23日には報道関係者の上陸が許可され、各メディアにおいて採掘される良質な強粘炭によって長年日本のエネルギーを支えた端島の現在の様子が紹介されました。建物の老朽化や廃墟化によって危険な箇所も多数あったため島内への立ち入りは長らく禁止されていましたが、多くの希望もあり2008年(平成20年)12月19日に長崎市による「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立し、翌年2009年(平成21年)4月22日から島の南部に整備された見学通路に限り一般の人々が上陸を許されることとなります。

以来、観光客数は年々増加し、解禁後の約1ヵ月で4,601人、半年で34,445人、1年間で59,000人を記録し、2012年(平成24年)には上陸30万人、解禁から5年後の2014年には累計50万人を突破したこともメディアで報じられました。

歌舞伎パンダ

これは歴史的建造物としての価値はもちろんのこと、2000年代に入ってから徐々に若者を中心に広がった「廃墟ブーム」や、映画やドラマ、ミュージック・ビデオ撮影のロケ地となったこともあと押しし、「軍艦島」の名が日本のみならず世界に広がった要因とも言えるでしょう。

軍艦島を舞台とした主な映画

映画イメージ
映画イメージ
  • 「緑なき島」…まだ活発に炭鉱が進められていた1948年(昭和23年)に公開。第二次世界大戦後、端島での人々の生活を感じることができるセミドキュメンタリー映画。
  • 「模型の国」…閉山した翌年の1975年(昭和50年)公開。明治学院大学映画研究のOBによって撮影されたドキュメンタリー映画。人々が去った端島の様子を淡々と記録した貴重な作品。
  • 「廃墟賛歌 軍艦島 Forest of Ruins 」…2004年(平成16年)公開。端島の歴史や施設がナレーションで解説され、現在の軍艦島を知ることができるドキュメンタリー映画。

軍艦島を世界遺産へ発案から登録まで

端島は観光地として再建されていく一方で、世界遺産登録に向けての動きも見られるようになります。元住人によるNPO「軍艦島を世界遺産にする会」が発足し、2003年(平成15年)より正式に活動が開始。こうした働きかけを受け、2004年(平成16年)には長崎県の金子知事がフランスを訪問し、ユネスコに軍艦島や教会群の世界遺産運動を紹介するなど自治体での活動も進められるようになりました。

その後も軍艦島の写真展やフォーラムなどといった活動が徐々に注目された結果、メディアでも多数扱われることとなり、「軍艦島を世界遺産に」という目標はもはや元住人や長崎県民だけではなく日本全国の人々の願いとなっていました。

こうした強い想いや地道な活動が功を奏し、世界遺産登録に先駆けて高島炭鉱跡(高島北渓井坑跡、中ノ島炭坑跡、端島炭坑跡)は、2014年(平成26年)に文化財保護法の史跡にも指定され、世界遺産登録へと希望を繋げたのです。

韓国による反対と和解、そして登録へ

端島炭鉱
端島炭鉱

世界遺産登録に向けた長い審議の末、晴れて登録が確実視された矢先に、今度は韓国からの反対を受けることとなります。

韓国側の主張は、第二次世界大戦中に多くの朝鮮人が過酷な労働を強いられた歴史がある施設が世界遺産として登録されることは認められないとし、登録予定の全23施設のうち7施設の申請撤回を求め、その中のひとつとして端島炭鉱が挙げられたのです。

その後、日韓両政府による協議がたびたび行なわれ、韓国側が世界遺産登録を目指す「百済歴史地区」との両案件が無事登録できるよう協力することで事態は収束。

そして、2015年(平成27年)7月5日、ドイツで開催された第39回世界遺産委員会の場において「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして端島は、悲願の世界遺産登録を果たしました。