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明治日本の産業革命遺産 萩城下町(はぎじょうかまち)

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幕末から明治維新にかけて、日本における近代国家の形成に尽力したことで有名な長州藩。

山口県萩市に位置する萩城下町は、長州藩が1863年(文久3年)に藩庁を山口に移すまでの間、長州藩の行政や産業の中心地として機能していた都市です。萩城下町には「萩城跡」、「旧上級武家地」、「旧町人地」などの3地区があり、96.9ヘクタールの区域が「明治日本の産業遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部として、2015年(平成27年)に世界遺産登録されました。

萩市には歴史的価値が高い遺構が多く残り、西日本随一の史跡都市と言えるでしょう。

萩城下町の歴史

萩城下町の見どころ

萩城下町の歴史

山口県の北部にあり、日本海に面し三方を山に囲まれた萩市は、かつて江戸時代の城下町として栄えた土地です。関ヶ原の戦いに敗れた西軍の大将・毛利輝元は、それまで居城としていた広島城からの退去を余儀なくされ、幕府より所領の減封処分を受けました。さらに毛利輝元は隠居を迫られ、剃髪して名を幻庵宗瑞(げんあんそうずい)と改めますが、事実上は藩主の座に君臨し続けていたと言われています。

形式上、家督を譲り受けた嫡男の毛利秀就へは、周防・長門2ヵ国の37万石が与えられ、1604年(慶長9年)には指月山の麓に城の築城を開始。このとき、防府の桑山、山口の鴻ノ峯、萩の指月山の3ヵ所を築城の候補地として幕府に申し出ていますが、そのなかで萩に決定したのは幕府の指示によるものだそうです。

このように藩庁が萩となったため、かつては「萩藩」と言われていましたが、藩庁が山口に移ってからの期間も合わせて、現在では「長州藩」と呼ばれるのが一般的です。

毛利家の居城「萩城」

萩城跡指月公園
萩城跡指月公園

1604年(慶長9年)に着工した萩城が完成したのは、4年後の1608年(慶長13年)のことでした。萩は、阿武川下流の松本川・橋本川に囲まれたデルタ(三角州)に立地し、湿地帯が多い地域。

歌舞伎パンダ

当時の指月山への道にも多くの湿地帯があり、満潮時には徒歩で渡れなかったとも。そのため、築城にあたってはまず大規模な埋め立て作業から始まったと言われています。萩城は別名「指月城(しづきじょう)」とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城とされ、本丸・二の丸・三の丸・詰丸から成り立っていました。本丸は指月山を背後に建っていた本丸御殿を中心に、東西約200m、南北約145mの規模に及び、この中には高さ14.5mの5層の天守閣や藩主の邸宅・諸役所、そして5基の矢倉があったとか。

二の丸は東西約278m、南北約108mの範囲に広がり、蔵元役所や寺社、そして13基の矢倉が配置されていました。詰丸は指月山山頂にあり、万が一敵が攻めてきたときを想定して造られた詰めの城です。

詰丸内には本丸と二の丸の他、武器を入れておいた矢倉が7基程あったとされていますが、残念ながらこちらには現存する建物はありません。この詰丸、本丸、二の丸は一般に「お城内」と呼ばれていました。1874年(明治7年)には廃城令のもと、天守閣・矢倉などの建物はすべて解体されてしまいましたが、石垣や掘などは今も昔の姿を留めています。

萩藩の政治・行政の中心地、堀内地区

二の丸の外側にあった三の丸には、主に毛利の重臣たちの邸宅が建ち並んでいます。この地域は「堀内」と呼ばれ、東西約981m、南北約665mの範囲は外堀によって城下町と区別されていました。中・下級武士が住んでいた城下町と区別するために、「旧上級武家地」という別名もあります。

堀内地区
堀内地区

偉人たちを産んだ旧町人地

呉服町筋
呉服町筋

外堀の東側の一帯は区画整備され、碁盤の目状に画された町筋に並ぶのは豪商や長州藩士の住居など。総門からの通りは「呉服町筋」と呼ばれる御成り道(おなりみち)であり、重要文化財にも指定されている萩藩御用達の豪商菊屋住宅をはじめ、古い家並みが建ち並んでいます。

その表通りから南に向かい3本の小路が設けられていました。東から江戸屋横丁、伊勢谷横丁、菊屋横丁と、通りの名前はその角にあった豪商の名に由来。かつてこちらの通りには、幕末に活躍しその名を残した偉人の生家があったことでも知られています。

その代表的な例として、幕末の風雲児と呼ばれた高杉晋作や維新の三傑のひとりである木戸孝允などの旧宅が挙げられるでしょう。

萩城下町の見どころ

このようにして完成した萩城下町は築城からおよそ250年もの間、長州藩の中心として栄えていました。現在もその繁栄がうかがえる遺跡や街並みが残り、訪れる観光客にその歴史を伝えています。

街の中を歩いてみれば、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような気分にさせてくれるはず。なお萩城下町は、幕末に日本が産業化を目指した上で創り上げた地域社会を最もよく示している遺跡であるという評価も受けています。

萩城跡

萩城跡
萩城跡

現在「指月公園」となっている萩城跡。公園内には毛利の御紋が印象的な志都岐山神社(しづきやまじんじゃ)があり、こちらは歴代藩主を祀るために1879年(明治12年)に建てられました。

こちらには「ミドリヨシノ」という名の、ここでしか見られない桜があります。ミドリヨシノは字のごとく、ガクが緑色をしているのが特徴。純白の花と緑色のガクが合わさって、遠目にみると桜でありながら淡い緑に見えるとか。この種類は萩のみで見られ、山口県の天然記念物に指定されています。

その他にも公園内には、13代藩主・毛利敬親が志士たちと時勢を論じた茶室と言われている「花江茶亭(はなのえちゃてい)」や、元々は毛利家の重臣・梨羽氏の別邸にあった物を移築した「梨羽家茶室(なしばけちゃしつ)」などの名所もあります。

旧町人地「萩城下町」

高杉晋作や桂小五郎、伊藤博文といったそうそうたる人々ゆかりの地を見ることができる萩城下町。

そのひとつである円政寺の拝殿の欄間には、赤い大きな天狗面がかかっています。この天狗面には、かつて高杉晋作が幼少期に好んで見に訪れたという言い伝えも残るとか。さらに、この円政寺の住職は伊藤博文の母方の親戚であり、伊藤博文は少年時代を小僧としてこちらで過ごしました。

萩城下町
萩城下町

寺には伊藤博文が使ったと伝えられる、荷物を運ぶために使う「しょいこ」が保管されています。

偉人が生まれ育った旧居

高杉晋作生家跡
高杉晋作生家跡

その昔、およそ30軒の武家の邸宅が並んでいたとされる江戸屋横丁、伊勢谷横丁、菊屋横丁。かつて、誰しもが歴史の教科書で目にしたことのある偉人がこちらに住んでいました。

歌舞伎パンダ
  • 木戸孝允旧宅…江戸屋横丁に位置する、木戸孝允が生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした生家。「桂小五郎」の名で幕末の尊攘運動に尽力したことで知られ、のちに維新三傑のひとりに数えられています。旧宅内には誕生の間や、幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示。
  • 高杉晋作生誕地…遺構が菊屋横丁に残る、高杉晋作の生家跡。桂小五郎と同じく維新に奔走した高杉晋作は吉田松陰の松下村塾で学び、23歳で藩に出仕し頭角を現しました。我が国初の軍事組織“奇兵隊”を結成し討幕戦を勝利へと導きましたが、結核を患い27歳という若さで死去。現在は、高杉晋作が生まれた際に産湯に使われたと伝えられる井戸や、自作の句碑が残ります。