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明治日本の産業革命遺産 旧グラバー住宅

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日本に多くの西洋文化を伝えたスコットランド人、トーマス・ブレーク・グラバーがかつて住居としていた洋館「旧グラバー住宅」。長崎県長崎市に位置する「グラバー園」内にあり、まだ西洋の建造物はめったに見ることができなかった江戸時代末期に建てられた洋風建築として高い評価を受けています。

ユネスコ世界遺産委員会より「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとして、2015年(平成27年)7月をもって世界遺産に登録されました。

西洋技術を日本に広めた偉人「トーマス・ブレーク・グラバー」

1838年(天保9年)、トーマス・ブレーク・グラバーは沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバーの第5子としてスコットランドに生まれました。彼が21歳を迎えた年の1859年(安政6年)、上海へと渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。

グラバーが入社したちょうど同じ年、イギリス系企業のジャーディン・マセソン商会は日本第一号店である横浜支店を設立し、日本への進出を目論んでいた時期でもありました。日本はまさに時代が激変しようとしていた幕末。

グラバーは入社後まもなく開港されたばかりの長崎に来航し、それから長い間日本の経済を支え続けることとなるのです。

維新での活躍

グラバーは来日後、ジャーディン・マセソン商会の長崎支店として「グラバー商会」を設立。海産物や金銀、生糸や茶を輸出し、武器や船舶、諸機械の輸入をする貿易業を営んでいました。その傍ら変動期を迎えていた日本の政治にも関心を持ち、その動向を冷静に把握、そして分析します。当時は幕府を支持する「佐幕派」と、朝廷を支持する「勤王派」の争いで国内は騒然としていました。

そんななかでグラバーは勤王派を支持し、さらにその主軸となるのが西国の勤王諸藩であろうと予想。そこで、主に薩長土肥を対象に、武器や弾薬、艦船などを斡旋(あっせん)する他、幕吏(ばくり)から志士を守るなど維新において大きな功績を残しました。また、1865年(慶応元年)には薩長藩士のイギリス留学にも携わっており、著名な志士のほとんどと交流があったと言われています。

このように多くの維新志士たちと協力し明治時代を作り上げたグラバーでしたが、もはや不必要となった武器は当然売れず1870年(明治3年)グラバー商会は破産。しかし、グラバーは日本に留まり、産業や経済面で活躍を続けます。

グラバーの功績

西洋文化を取り入れ、近代化に向けて動き出した日本をあらゆる面で手助けをしたグラバー。造幣寮で使用する機械の輸入も手がけるなど、明治政府との密着な関係もうかがえます。1868年(明治元年)から始めた佐賀藩藩主・鍋島直正との共同経営であった高島炭鉱は、蓬莱社の手に渡って以降存亡の危機にも晒されますが、1881年(明治14年)には三菱財閥の手に渡りました。

三菱財閥の創設者・岩崎弥太郎とも元々交流を持っていたグラバーは、高島炭鉱の所長として再度経営に当たることとなります。それからまもなくして1885年(明治18年)には、三菱財閥の相談役に就任。そして、グラバーは当時経営難に陥っていた企業「スプリング・バレー・ブルワリー」に着目します。スプリング・バレー・ブルワリーはノルウェー系アメリカ人、ウィリアム・コープランドが横浜に創立し、日本初となるビール製造・販売を手がけていた会社でした。

グラバーからスプリング・バレー・ブルワリー再建の案を受けた岩崎弥太郎は、1907年(明治40年)に同企業を三菱傘下に置き、「麒麟麦酒(きりんばくしゅ)」として再発足させます。これが現在、主に飲料において高い国内シェアを誇る「キリンホールディングス株式会社」誕生の瞬間でした。

グラバーの生涯

グラバーは1870年(明治3年)頃、大阪の造船屋「淡路屋」の娘であるツルと結婚。2人は、薩摩藩士であり実業家の五代友厚の紹介で出会ったと言われています。子宝にも恵まれ、長女にハナ、長男に倉場富三郎を授かりました。

そして、1908年(明治41年)にはその功績が評価され、当時外国人に授けられるのは異例であった勲二等旭日重光章(くんにとうきょくじつじゅうこうしょう)を授与されます。その3年後の1911年(明治44年)に、73年の生涯を終えました。

来日した21歳のときから亡くなるまでの間を日本で過ごした親日家のグラバーは、今も長崎市内の坂本国際墓地に眠っています。

施設情報はこちら

旧グラバー邸の概要

1861年(文久元年)、グラバーは長崎県長崎市南山手3番地に1,619坪にも及ぶ広大な敷地を手に入れます。その2年後の1863年(文久3年)、グラバー指導のもと日本人大工の手によって木造洋風の住宅が建てられました。これが、のちに世界遺産に登録されることとなる旧グラバー邸です。

グラバーの功績と共に、現存する日本最古の木造洋風建築である点も評価されました。見晴らしの良い丘上に建ち、眼下に広がる景色は長崎港と対岸に位置する現在の三菱重工業(株) 長崎造船所。主屋と附属屋はいずれも平屋建てで、建物の北・西・南の各面に設けられた大きなベランダが特徴です。建物を上からみると、四葉のクローバーのような形をしているとか。

また、邸内には幕末期に維新志士たちを匿ったと言われる「隠し部屋」も存在します。グラバーの息子である倉場富三郎とその妻ワカは、1939年(昭和14年)に当時の三菱重工業株式会社長崎造船所に売却するまでこの家に住んでいました。しかし、その後の1957年(昭和32年)、長崎造船所開設100周年記念として旧グラバー邸は長崎市に寄贈され、翌年から一般公開へ。

1961年(昭和36年)には、主屋と附属屋が国の重要文化財に指定されています。

その他グラバー園の見どころ

旧グラバー邸が建つ敷地内には、他にも国の重要文化財に指定されている建物など見どころがたくさんあります。

もちろん、四季の花々が彩る庭園も見逃せません。

旧リンガー住宅

グラバー商会の幹部として日本に在駐していた、「フレデリック・リンガー」がかつて住居としていた家屋。建築された時期は、グラバーがリンガーに借地権を譲渡したという記録が残っている1868年(明治元年)頃とされています。

三方をベランダで囲まれたバンガロー風のスタイルで、石と木をうまく取り入れた木骨石造が特徴。1965年(昭和40年)には所有権が長崎市へと移り、翌1966年(昭和41年)6月11日をもって国指定重要文化財に登録されています。

旧オルト住宅

1859年(安政6年)頃に長崎に来日したイギリス人商人「ウィリアム・ジョン・オルト」が1865年(慶応元年)から1868年(明治元年)の3年間住居としていた建物です。

長崎に残っている石造りの洋風住宅の中で最も大きく、石造円柱が並ぶベランダの迫力は見事。第二次世界大戦後の1970年(昭和45年)に長崎市の所有となり、1972年(昭和47年)5月15日には主屋及び附属屋、倉庫が国の重要文化財に指定されました。

恋が叶うハートストーン

グラバー園の敷地内にある石畳の中には、ハートの形をした石が2つ隠されています。この石を探し出して触れると、恋が叶うという伝説が。

入園時に貰えるパンフレットに書いてあるヒントを頼りに、ハートストーン探しにぜひ挑戦してみましょう。

グラバー園に移築された建造物たち

・ 旧三菱第2ドックハウス…造船所で修理されている船を待つ乗組員たちの宿泊施設。もとは三菱重工業長崎造船所に建てられていました。

・ 旧長崎高商表門衛所…長崎高等商業学校の創立時の表門を移築・復元。

・ 旧長崎地方裁判所長官舎…明治16年(1883年)築の長崎地方裁判所長の官舎。元々は長崎市の上町に建てられており、居留地外から移築されました。

・ 旧ウォーカー住宅…イギリス人実業家「ロバート・ネール・ウォーカーJr」の旧邸。元々建てられていたのは大浦天主堂付近だそう。

・旧スチイル記念学校…東山手の丘に建てられたミッション系学校の校舎。 ・ 旧自由亭…江戸時代末期、日本初の西洋料理レストランとしてオープン。伊良林の神社前から移築されました。

・ フリーメイソン・ロッジの門…フリーメイソンのシンボルが刻まれた門。これを根拠にグラバーがフリーメイソンの一員であったと言われていますが、実はこの門は戦後長崎市によって移設されたとか。