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原爆ドーム(広島県)

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広島県広島市中区大手町にある被爆した建造物は「広島平和記念碑」として維持・保管されており、「原爆ドーム」の通称で知られています。第二次世界大戦時に原爆の被害を受けたこの原爆ドームは、悲惨な過去を語り継ぐ建物として1996年(平成8年)にユネスコ世界遺産(文化遺産)として登録されました。

なお、海外でこの建物が紹介される際には、英字で「Atomic Bomb Dome」と記されますが、ユネスコの世界遺産として登録されているのは、施設全体を指す「広島平和記念碑(Hiroshima Peace Memorial)」です。

「負の世界遺産」のひとつとして

原爆ドーム

原爆ドームは、世界遺産として登録されていますが、国内の一部では「負の世界遺産」とも呼ばれています。

人類の発展や隆盛の資料となる史跡や文化などが多く登録される世界遺産の中で、決して喜ばしい歴史ではないものの、しかし人類の足跡として記録に残し、後世への戒めにすべきだと考えられるものが「負の世界遺産」と呼ばれます。

ただし、この分類はユネスコが定めるものではなく、また世界でも一般的には使われているものでもなく、日本の一部有識者の間で独自に区分されているものです。

他に「負の世界遺産」とされる世界遺産は、「アウシュビッツ=ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺した強制収容所)」や、「ビキニ環礁の核実験場跡(核実験が行なわれ、多数の漁民が死の灰を浴びた)」、「ゴレ島(奴隷貿易の拠点になった島)」などが挙げられています。

戦争にかかわるものや、核兵器にかかわるもの、かつて行なわれていた奴隷貿易などにかかわるものが、「負の世界遺産」として扱われています。私たちは、こうした史跡の存在を知るのと同時に、どんな歴史が刻まれているか、正しく勉強したいところです。

原爆ドーム 公式サイト
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/
dome/
施設情報はこちら

被爆以前の姿

原爆ドームは、元々「広島県物産陳列館」として開館しました。当時の広島市は、日清戦争で大本営が置かれたことから急速な発展を始め、経済活動が活発化していました。

そんな中、商品を展示し販売する拠点として1915年(大正4年)に完成したのが、この広島県物産陳列館でした。

建築家ヤン・レッツェル

原爆ドームを含む広島県物産陳列館は、チェコ人の建築家ヤン・レッツェル(「レツル」と表記されることもあります)により設計されました。

ヤンはチェコで近代建築を学び、エジプトの設計事務所に勤め、イタリアを回ってから1907年(明治40年)に来日しています。

その後は、横浜にあった建築事務所に勤務し、やがて独立して数々の設計を行なって活躍しました。

原爆ドームの建築様式は、ネオ・バロックに似た骨格に、ゼツェシオン風の装飾を施した個性的な混成様式です。原爆ドームの特徴的なシルエットは、彼によって生み出されました。

広島の文化・産業拠点としての姿

「広島県物産陳列館」として誕生した施設は、1921年(大正10年)に建物の名称が「広島県立商品陳列所」と改められ、また1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」と再び改名します。

この頃の原爆ドームは、モダンなドームを持つ広島県を代表する文化・産業の拠点として栄えていました。

8月6日の被爆

やがて勃発した第二次世界大戦により、日本の各都市も戦火に脅かされるようになってしまいます。

その頃の広島県産業奨励館は、かつて平和だった時代のように産業拠点としては使われておらず、行政機関や組合などの事務所として使われており、内務省の土木事務所や木材会社などが入居していました。

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は歴史的な大惨事に襲われます。アメリカ陸軍航空軍のB-29「エノラ・ゲイ」が、原子爆弾(原爆)「リトルボーイ」を広島へ投下したのです。

爆弾は原爆ドームの東150m、上空約600mの位置で炸裂し、周囲は爆風と熱線でさらされました。このとき、地表の温度は3,000度に達したとされ、また爆風は秒速440m以上だったとされています。

一定の形を残すことができた理由

原爆による猛烈な爆風と衝撃波は、効果範囲内にある建物のほとんどを破壊してしまいました。

爆心地に近い広島県産業奨励館も例外ではなく、ほとんどの建物部分が全壊し、かつて繁栄した建物は見る影もなくなってしまったのです。

しかし、今残っているドーム部分のみは、奇跡的に一部を残すことができました。これは「ドーム型」という特異な形状であったことと、爆心地がほぼ真上だったため爆風が上手く通り抜け、建物へのダメージが抑えられたことなどが理由として考えられています。

かくして「広島県産業奨励館」は、被爆建造物になりました。

「原爆ドーム」として

やがて戦争は終わり、広島は焼け野原からの復興を目指すことになります。

原爆によりほとんどの建物が破壊された一面の焼け野原、広島県産業奨励館の残骸である個性的なドームは、いつしか地域の人々から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。

取り壊しから保存の方向へ

原爆ドーム

広島市の復興が進む中で当初、原爆ドームをどうするかは議論が分かれていたそうです。

「原爆ドームを目にするたびに原爆を思い出してしまう」と取り壊しを求める声と、「原爆の悲惨さを伝えるシンボルとして残すべきだ」とする声がぶつかり、決着がつかないまま月日は流れていきます。

やがて1949年(昭和24年)に「広島平和記念公園構想」が本格化し、原爆ドームの南側に大規模な公園が造営されることになります。

原爆ドームをどうするかは保留のまま、原爆ドームをシンボルのようにした公園「広島平和記念公園」が完成しました。

やがて1960年代になると原爆ドームは風化が進み、崩落の危険性が高くなってきました。この頃にも取り壊しを求める声が高まりましたが、ある少女の日記をきっかけとして世論は急展開を見せます。

1歳で被爆したその少女が、原爆による放射線障害が原因とされる急性白血病により、16歳の若さで亡くなったのです。

彼女の日記には「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」と書き残されていました。

「原爆の恐ろしさを後世に伝える」。それこそが唯一の被爆国である日本がなすべきことだと、平和運動家を中心とした活動が活発になり、原爆ドームはシンボルとして保存されることになります。

原爆ドームは定期的に補修工事が施されるようになり、永久保存を目指すことが広島市議会によって決議されました。

世界遺産登録へ向けて

1992年(平成4年)、広島市議会によって「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書が採択されます。

要望は市長によって文化庁へ届けられましたが、当時の政府としてはアメリカをはじめとした戦勝国を刺激したくないという政治的配慮から消極的だったそうです。

しかし、世界遺産登録に賛同する署名が多く集まり、それにあと押しされる形で、まず1995年(平成7年)に原爆ドームが国の史跡に指定され、さらに同年にはユネスコへ原爆ドームの世界遺産登録が推薦されることになりました。

1996年(平成8年)に行なわれた世界遺産委員会の会合では、アメリカと中国から反対意見が述べられますが、審議の結果、原爆ドームは文化遺産として登録されることになり、「原爆被害の恐ろしさ」を世界の人々へ伝える一歩を踏み出しました。