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明治日本の産業革命遺産 恵美須ヶ鼻造船所跡・大板山たたら製鉄(えびすがはなぞうせんじょあと・おおいたやまたたらせいてつ)

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近代工業の発展において重要な役割を果たした製鉄・製鋼、造船、石炭産業。山口県萩市に位置する恵美須ヶ鼻造船所跡は、その中の造船業を支えた施設のひとつです。幕末に稼働し、西洋式の大船を造り上げました。

その貴重な遺構は歴史的価値を評価され、2015年(平成27年)に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界遺産の仲間入りに。史跡が多く残る街・萩市の観光地としての役割を果たしています。

萩反射炉の歴史

現在の萩反射炉

恵美須ヶ鼻造船所の歴史

江戸時代末期になり、西洋列強の脅威に晒された日本は海防の強化に取り組み始めます。

そこで、それまで200年近く禁じていた大型船の建造を解禁。浦賀の警備を担当していた長州藩も、大船の建造を要請されたため萩市に造船所を設けることとなりました。そのとき造られたのが、恵美須ヶ鼻造船所です。

大船建造禁止令の解禁

軍艦
軍艦

1853年(嘉永6年)、今まで鎖国を貫いていた日本にとって衝撃的な事件が起こります。

ペリーの黒船来航を筆頭に、イギリスやロシアなどの西欧諸国からの軍船が日本近海に続々と現れました。この混乱の中、江戸幕府の老中・阿部正弘は安政の改革を実行。その改革の中のひとつに、諸藩に対し通達していた「大船建造禁止令」の撤回が含まれていました。

翌1854年(安政元年)には、幕府は長州藩(当時は「萩藩」と呼ばれていた)に対し大船建造を要請。長州藩としては財政上の理由などから消極的な態度を取っていましたが、桂小五郎の打診により藩主・毛利敬親は1856年(安政3年)、洋式軍艦を建造することを決定。このときに藩主に造船を決意させた桂小五郎は、ペリーが再来航した際に実地見学を申し入れ実際にペリー艦隊を見聞した経験などがあることからも、軍艦に強い興味を持っていたことが分かります。

造船のはじまり

長州藩として大船を造る方針が決定し、まず行なったことは人材の確保と教育です。当時すでに伊豆国戸田村において進められていた、大船「君沢形(きみさわがた、くんたくがた)」の建造現場に、船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣しました。

恵美須ヶ鼻造船所跡
恵美須ヶ鼻造船所跡

この君沢形とは「スクーナー」と呼ばれる2本以上のマストに張られた縦帆が特徴的な帆船の一種であり、日本初の本格洋式帆船です。尾崎はこの君沢形の建造にあたっていた高崎伝蔵らに協力を頼み込んで長州藩に連れ戻り、1856年(安政3年)、当時は武家下屋敷地、及び埋立地であった恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を開設することに成功しました。

恵美須ヶ鼻造船所で造られた2隻の船

恵美須ヶ鼻造船所
恵美須ヶ鼻造船所

造船所が開設してすぐに萩藩最初の西洋式木造帆船の建造が進められ、1856年(安政3年)12月には進水し、「丙辰丸(へいしんまる)」と名付けられました。丙辰丸は全長25mの大きさで、2本マストの「スクーナー君沢形」。尾崎や、高崎が戸田で学んだロシア式造船術が用いられました。

主に物資を運ぶ輸送船として使われていましたが、江戸への遠洋航海も経験しており、第二次長州征討や戊辰戦争では小さいながらも軍艦として参加したと言われています。丙辰丸が完成した翌1857年(安政4年)には造船所が閉鎖されますが、そのまた翌年には軍政が見直され2隻目となる洋式船の建造が決定。

前回、戸田から技術を授かった長州藩でしたが、今回は長崎の海軍伝習所に藤井勝之進をはじめとする技術者13名を派遣します。

当時、長崎海軍伝習所ではオランダ軍人が教師を勤めており、そこで教わる医学や航海術はオランダ式のやり方でした。その技術を萩に持ち帰った藤井らは1860年(万延元年)4月に2隻目となる洋式軍艦「庚申丸(こうしんまる)」を完成させます。

庚申丸は横帆が主体となり、最後尾マストのみが縦帆装となる通称「バーグ型」と呼ばれる方法で造られました。1隻目の丙辰丸の2倍近い大きさを誇り、下関戦争や長州征討において実用されました。

君沢形誕生秘話

1854年(嘉永7年)、日露和親条約の締結を交渉するため、ロシア帝国の海軍軍人プチャーチンが来日しました。しかし、来日から2ヵ月後、不運にも安政東海地震に見舞われてしまいます。その際、下田沖に碇泊していた船「ディアナ」が津波により大破。修理を試みるも再度の嵐により、とうとう沈没してしまいました。

君沢形
君沢形

そのため、プチャーチン一行は帰国のために急遽船の製造が必要となり、1855年(安政2年)に幕府に協力を要請・同意を受けます。設計はロシア人乗員が担当し、日本側は資材や作業員などを提供するかたちで支援しました。こうして起工よりわずか3ヵ月で船は完成。船は、建造地の戸田(へだ)にちなんで「ヘダ号」と名付けられました。ちなみにこのときに要した建造費用は労賃を除いても3,100~4,000両と、膨大な額だったと言われています。

その代わり、プチャーチン一行が無事ロシアに帰国したあとは、完成した船を日本側へ譲渡するという約束を交わしており、これは当時の日本にとってとてもありがたい出来事だったのでしょう。こうして日本人はロシア人から造船の技術を授かることとなり、相次いで大船を建造します。

このとき造られた同じ型の船は、戸田村が属した君沢郡に由来し「君沢形」と名付けられました。

大板山たたら製鉄遺跡

船の製造にあたり、大切な資源のひとつである「鉄」。

恵美須ヶ鼻造船所での造船における鉄の入手先に、山口県萩市に造られた大板山たたら製鉄所が挙げられます。日本古来より伝わる「たたら吹き」技術によって生産された鉄が洋式戦艦の原料となったという事実は、外国から取り入れた新しい技術と日本独自の伝統工業とが合わさったユニークな例として注目を浴びました。

大板山たたら製鉄の歴史

たたら製鉄
たたら製鉄

「たたら」とは、原材料の砂鉄を木炭の燃焼熱によって還元し、鉄を生み出す方法です。この日本独特の製鉄法は千年以上の歴史を持ち、そうしてできる鉄は人々の日用品や儀式、そして武器などと様々な用途に利用され、長く重宝されてきたのでしょう。大板山のたたら製鉄所は、宝暦期の8年間、文化・文政期の10年間、そして幕末の12年間の3回にわたり断続的に操業をしていました。

これは、たたら製鉄にあたって大量に消費する「木炭」が原因と考えられます。周囲の木材を利用するため、たたら職人たちはある程度、木を倒し使用したところでまた別の製鉄所に移動し、また山が緑を取り戻した数十年後に戻ってくるというサイクルを繰り返していたとか。当時の人々がいかに自然に敬意を払い、共存に努めていたかがうかがえます。一番長い期間操業していた幕末期に作り出した鉄は、1856年(安政3年)に恵美須ヶ鼻造船所で造られた「丙辰丸」の材料にもなりました。

大板山たたら製鉄の遺構

このように長い歴史を持つ大板山のたたら製鉄所ですが、本格的な遺跡調査が行なわれたのは1981年(昭和56年)年のことでした。

歌舞伎パンダ
大板山たたら製鉄所の遺構
大板山たたら製鉄所の遺構

しかし、1984年(昭和59年)には遺跡の程近くに位置する「山の口ダム」が完成し、遺跡の一部がダムに沈んでしまいます。幸い製鉄遺跡の主要部分は残され、1988年(昭和63年)には山口県の史跡に指定されました。平成に入ってからも詳しい発掘調査が進められ、2009年には「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産として世界遺産暫定リスト入りを果たし、続く2012年(平成24年)には国の史跡に、そして2015年(平成27年)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして世界遺産登録されました。

敷地内には元小屋・高殿・砂鉄掛取場・鉄池・鍛冶屋等の遺構が良い状態で保存されており、建物跡などの遺構も直に見ることができるため、かつてこの場所で行なわれていたたたら製鉄の光景が目に浮かぶような遺跡となっています。