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碁盤の区割りの「但馬の小京都」 五條新町(奈良県五條市)

奈良県五條市の五條新町地区は、中世に町の形成が始まり、その後は交通の要所として発展してきた商家町です。現在も江戸時代の建造物を中心に保存状態が良好な伝統的建造物が多く建ち並んでいます。

江戸から昭和までの民家が並ぶ 五條新町

平成22年12月24日選定

五條新町 奈良県の南西部、和歌山県と隣接する五條市の中心地である五條新町は、中世に町場が作られた「五條」地区と、その西に江戸時代初期に松倉氏の城下町として栄えた「新町」から形成されている地域です。この地域は、南西に和歌山へ流れる吉野川の水運をはじめ、大和国から伊勢国・紀伊国へと通じる街道が交差する交通の要所であったため、近世には宿駅として繁栄しました。
松倉重政がこの地に入ったのは1608年(慶長13年)。五條地区から西へおよそ1km、現在は妙住寺が建つ場所に二見城を築いたことが始まりです。商家町の五條と二見城を結ぶ通り沿いに民家が建てられていき、新しい町が形成。そのため新町と呼ばれることとなったのです。その後1616年(元和2年)に松倉重政が九州・肥前国へと国替えをさせられたため、二見城は廃城となりましたが、城下町であった新町は五條と共に天領・五條新町となり、江戸幕府の加護を受けながら商家町としての発展を続けていきました。
この地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたのは2010年(平成22年)12月24日。吉野川と並行する新町通(旧紀州街道)沿いの東西約750メートルに現存しています。江戸時代初頭から昭和時代前半にかけて建てられた町屋などが集中しており、これらは近世の町並を考察する上で貴重な歴史的遺産です。特に江戸時代から明治、大正、昭和戦前戦後期にわたる民家の遷移の様子を見ることができます。民家の多くは切妻造・平入・本瓦葺で、江戸時代に建てられた建物には、屋根裏に木を渡した上の物置場である「厨子(つし)」を設けた「厨子二階建て」が多い一方、明治時代の建造物には天井高が上階と下階でほぼ同じ二階建てである建物が多く見られます。

現存する最古の民家 栗山家住宅

重要文化財

栗山家住宅(重要文化財) 保存地区の最東端、新町口交差点の北にある栗山家住宅は、1958年(昭和33年)に建築史家の浅野清らによる調査の結果、江戸時代初頭の1607年(慶長12年)の建造で、建築年代が判明している物としては日本最古の民家であることが分かりました。またこの建築年は松倉重政が二見城を築く前であることから、栗山家住宅は五條新町が城下町として形成される前から建っていたと言えます。1968年(昭和43年)4月に国の重要文化財に指定された他、この栗山家住宅の保存状態の良質さがきっかけとなり、1975年(昭和50年)には奈良国立文化財研究所によって伝統的建造物保存対策調査が五條新町地区全体で行なわれました。その結果、この地区には良質な保存状態の伝統的建造物が多く現存していることが学術的にも判明し、2010年(平成22年)の伝統的建造物群保存地区に選定。つまり、五條新町が保存地区となった一連の始まりは、栗山家住宅だと言えます。
現在も現役の住居として使われている建物であるため、公開はされていません。また建築された当初の建築主や住人などの記録は発見されておらず、現在も不明のままとなっています。しかしその重厚で大規模な構えや、母屋には一般的な田の字型の「整型四間取り」を発展させた、格式高く名主の建築物に用いられることの多い「整型六間取り」の間取りを採用していることなどから、この建築物がかなりの有力者が住むための家として建造されたことが推測されます。

厳重な防火対策が見られる町屋 中邸

奈良県指定文化財

中邸(奈良県指定文化財) 栗山家住宅から南に新町口交差点を越え、国道168号線を挟んだ所には、奈良県の指定文化財に指定されている中邸があります。1704年(宝永元年)の建築であり、入母屋造の本瓦葺きの重厚な趣と、漆喰塗りの白い壁、木製の格子戸や壁の板張りのコントラストが美しい建物です。江戸の街を一面に燃やした元禄の大火のあとに建てられたとされており、そのため、防火策が厳重に施されていることも特徴に挙げられます。この中邸も、公開はされていません。

単層に見せる広大な本家 栗山邸

五條市指定文化財

栗山邸(五條市指定文化財) 国道168号線、中邸の向かい側に建つのが栗山邸(栗山本家)です。棟札には1696年(元禄9年)の建造となっています。母屋は、二階建てや厨子二階建ての建造物が多い五條新町には珍しく、単層に見せる構造の建物です。国の重要文化財である「栗山家住宅」の本家がこちらの栗山邸であり、その敷地の広大さは優劣が付けがたく、共に五條新町のシンボル的な存在となって現在に至っています。