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観光情報

日本の観光施設を巡る「安土城(滋賀県)」



安土城」は、織田信長が築いた近世城郭の始まりの城です。1576年から築城が始まり1579年に完成をみますが、そのわずか3年後、信長は天下統一を目前に本能寺の変でこの世を去り、安土城の天主(安土城関連の史書では天守を「天主」と表記)も原因不明の火災で焼失します。現在残るその城跡からは、信長の理念が注ぎこまれた往時の安土城の姿を垣間見ることができます。

安土城の歴史

信長が天下布武の拠点として築城

信長が天下布武の拠点として築城

1576年、織田信長は近江の安土山に新たな居城の築城を開始します。信長が安土の地を天下布武(てんかふぶ)の拠点に決めたのは、京に近く、街道が交差する交通の要衝であり、さらに琵琶湖の湖上交通が掌握できるためだったと考えられています。

安土城は築城開始から3年後に、五層七階の大型の天主を初めて持った城として完成します。安土城では、戦国時代の城郭では用いられていなかった瓦が葺かれ、金の鯱(シャチホコ)を初めて乗せたのも安土城だと言われています。高石垣、天主、瓦といった安土城の構造や築城技術は、その後数多く築城された近代城郭の手本になっています。

実際に安土城を観覧したことのある宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には、安土城の城下町には武士が約2,000人、商人が約7,000人住んでいたと記されています。

謎の火事で焼失。今なお、多くの建築学者たちを虜にする城

しかし、完成からわずか3年後、信長は、明智光秀によって本能寺で殺害され、安土城はそれからしばらくして、いまだ原因のわからない謎の火事により焼失し、現在は石垣だけが残っています。

その石垣や様々な記録などから、安土城に築かれた天守が、日本最初の本格的な天守であったとされ、城の外面は、各層が朱色・青色・あるいは白色、そして最上層は金色だったと言われています。天守内部の様子については、『安土日記』や『信長公記』に詳細に記されており、狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や、金碧極彩色で仕上げた部屋などがあったようです。安土城は、当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成してつくられた、まさに安土桃山文化の幕開けとなった城。しかし、平面図や立体図は残されていないため、安土城は古くから多くの建築史学者たちの最大の興味の的であり、復元案もいくつも発表されています。

安土城の見どころ

天守台礎石群

安土城の中心には、五重七階の「天守」という高層建築が造営されたわけですが、現在残るその基壇である天守台は、平面が不等辺7角形という特異な形をしており、建築史学者ではなくても、どのような天守であったのかと想像力が膨らみます。また、天守台の周囲には石塁が巡っており、穴蔵(地階)形式であったことがわかります。その地階には整然と天守の礎石が並んでおり、その数は東西10列、南北10列で、心柱が立つはずの中央の礎石がないことも不思議です。

大手道

大手門から山頂に向かう大手道は、両端に側溝があり、幅約6mの石段が180mほど直線的に伸びています。石仏が使われた石段もあり、道の両側には家臣たちの屋敷が階段状に配置されていたようです。

安土城考古博物館

安土城の近くにある「安土城考古博物館」では、中世の城づくり、戦国時代の近江、安土城と織田信長、近世の城郭などをテーマにした展示が行なわれています。「中世の城づくり」では『築城記』をもとに中世城郭の一部を実物大復元し、安土城との相違点を示しており、興味深くみることができます。また、「安土城と織田信長」では1989年度からの発掘調査の成果や安土城を築いた織田信長関連の資料などが展示されており、こちらもおススメです。安土城跡の推定復元模型(20分の1)も見ることができます。