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日本の観光施設を巡る「彦根城(滋賀県)」



彦根城」は、日本最大の湖・琵琶湖を望む彦根山(金亀山、こんきやま)に建つ城です。日本の城郭建築は16世紀中ごろに確立したと言われ、彦根城は世界遺産の姫路城と並び、17世紀初頭の日本の城郭建築最盛期を象徴する遺産で、現在も山頂には江戸時代以前に建造された本物であり国宝の天守(国宝は姫路城・松本城犬山城を含め4つのみ)がそびえています。世界遺産暫定リストにも掲載されている日本を代表する名城です。

徳川四天王の井伊家が築いた城

徳川四天王の井伊家が築いた城

彦根城は、1601年に徳川四天王のひとり、井伊直政とその子直継によって築かれた城です。直政は当初、関ヶ原の論功行賞により、家康から、鎌倉時代から武将たちの天下取り争いの重要拠点であった彦根の佐和山城(元石田光成居城)を与えられますが、翌年、直政が鉄砲傷を悪化させこの世を去ると、後を継いだ息子の直継は、彦根山への城の移築計画を家康に申し出、現在の彦根山での築城が行なわれることになります。移築の目的は、佐和山城が山頂に築かれた山城であったため当時の鉄砲戦には不都合であったこと、また豊臣色を一掃する目的もあったのではないかと言われています。そして彦根城は、1604年からおよそ20年の歳月を経た後に完成します。

徳川四天王の井伊家が築いた城

以来、彦根藩は、江戸時代を通じ、記録に残っているだけでも5名もの大老を輩出し、260年間一度も国替えや城攻めのない、徳川幕府きっての重鎮「彦根藩35万石・井伊家」14代の居城として幕末を迎えます。そして、幕末に江戸幕府の大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本を開国に導くとともに、安政の大獄で知られ、桜田門外の変で亡くなった日本史の重要人物・井伊直弼(なおすけ)は、彦根藩第13代藩主です。

大隈重信の奉上により残された城

明治に入り、全国にあった多くの城が廃城令の公布でことごとく解体の憂き目にあう中、彦根城はそれを逃れた数少ない城の一つとなりました。明治政府の異例とも言える特例政策として、一部を除き、城郭の土地と建造物一帯が保存されたのです。その理由としては、明治天皇が1878年に北陸巡幸を終え、彦根に立ち寄られた際に、随行した大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説、また天皇が近江町長沢の福田寺で小休止された時、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹にあたるかね子が奉上したという説があるようです。ともかく、奇跡的に残った彦根城は、幸い、昭和の戦火からも逃れ、1952年には天守が国宝に指定されるに至ったわけです。

彦根城の見どころ

彦根城は、ほぼ江戸時代そのままの城郭としてのまとまった姿を残す城であり、城本来の防衛機能を知るのにも最適な城です。彦根山の山頂に国宝の三層三階の天守がそびえ、その前後には鐘の丸・太鼓丸・西の丸が広がり、各種の櫓が天守を守備するように構築されています。また、太鼓丸と西の丸の端には大堀切があり、山の斜面には現在、松山城と彦根城だけに残る稀有な構築物である「登り石垣」が築かれ、それらが櫓や門・石垣などとも巧妙に連結して高度に発達した軍事的防衛施設を形成しています。防御機能のもう一つの特徴が、琵琶湖から水を引き入れた3重の堀。そのうち外堀は昭和期に原虫感染症マラリアが大流行したことが原因で埋め立てられましたが、中堀、内堀は現存しています。

城主の居館施設や御殿建築を楽しむ

彦根山のふもとには、藩庁の機能を持った上屋敷(表御殿)や機能の異なる2つの下屋敷(玄宮楽々園・松原御殿)など、城主の居館施設が良好に現存・復元されています。藩主の別邸であった下屋敷が城内に現存しているのは彦根城だけです。

彦根藩の政務が行なわれ、また藩主が日常生活を送っていた表御殿は、明治の廃城令で解体されましたが、発掘調査を経て1987年に彦根城博物館として復元。能舞台・御殿・庭園を現代によみがえらせ、大名道具の展示と合わせ、江戸時代の大名文化を明瞭な形で追認することができます。雨天時には、ここに、ゆるキャラブームの火付け役「ひこにゃん」が登場します。

リサイクルの城としての顔も

実は、彦根城はもうひとつ、非常に面白い顔を持っています。豊臣恩顧の大名が多い西国への抑えの拠点と意識され、完成が急がれたため、佐和山城をはじめ、小谷城長浜城、大津城などといった近隣の旧城郭の石垣や建造物が使用されたのです。天守そのものが大津城天守を移築したと伝わります。いわば、彦根城は木造だからこそできた、日本ならではのリサイクルの城なのです。