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日本の観光施設を巡る「熊本城(熊本県)」



秀吉家臣団の武功派武将として知られる一方で、「築城の天才」「土木の神様」とも言われる加藤清正(かとうきよまさ)が、自身の城として築いた「熊本城」。数多くの戦に赴き、戦い抜いた清正がその実戦経験を生かし、「武者返し」と呼ばれる堅牢な城壁をはじめ、随所に防戦防衛攻撃のための工夫を施した難攻不落の名城です。

実践を想定した巨大要塞

実践を想定した巨大要塞

現存する熊本城の築城年は、実はよくわかっておらず、おそらく1600年以降だろうと言われています。その構えは豪壮雄大で、当時は大小天守閣はじめ、49の櫓(やぐら)に18の櫓門(やぐらもん)、さらにその他に29の城門があったと言われ、実戦を想定した巨大要塞でした。1877年の西南戦争では、薩摩の大軍を迎えて50余日の籠城に耐えたと言われ、難攻不落の名城の真価を発揮しています。

築城の天才・加藤清正

初代城主であり、築城者でもある加藤清正は、1562年、尾張国(おわりのくに=愛知県)で生まれます。豊臣秀吉とは双方の母親が従姉妹同士という血縁関係にあったようです。秀吉には、9歳のころから仕えており、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで活躍した7人の武将を称える「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられるなど、武功派武将として名を馳せます。その一方で、「築城の天才」「土木の神様」としてもよく知られ、熊本城の他、名古屋城の石垣も、清正が手伝い普請として加わりつくったものとされ、その美しい曲線は「扇の勾配」などと言われ高く評価されています。

清正の善政を称える「せいしょこさんのさしたこつ」

清正が、肥後(熊本県)北半国19万5000石の領主に任命されたのは、熊本城築城に遡ること10年ほど前の1588年、27歳のとき。清正が入国した当時の肥後は、まだ、国衆(こくしゅう)と呼ばれる土豪たちが数多くおり、長引く戦乱によって荒れ果てていました。「これほど貧しい国を見たことがない」と宣教師が書き残しているほどです。そんな肥後の地で、清正が居城(熊本城)を築くよりも先に行なったのが、緑川・白川などに堤防を築くことです。主要河川が荒れているのを目にし、すぐさま取り掛かったようです。これは今も「清正堤」という名で残っており、その一部は現在も堤防の役割をしています。このように、清正は治山治水をはじめ、国を豊かにする方策を様々打っています。結果、領民からは神様のように慕われるようになり、今でも熊本では、善政の事跡は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるのです。

「武者返し」の石垣

熊本城は、明治に入ると建物が次々と取り壊され、貴重な天守閣や本丸御殿(ほんまるごてん)までも西南戦争によって燃えてしまいます。現在の天守閣は1960年に、本丸御殿は2008年に再建されたものです。しかし、熊本城の一番の特徴である石垣は、往時の姿をとどめたまま現存しているものです。この熊本城の石垣は、加藤清正が近江国(滋賀県)から率いてきた特殊技術を持つ石工集団、「穴太衆(あのうしゅう)」によってつくられたと言われています。その最大の特色は、地面付近は勾配がゆるやかな傾斜で簡単に登れるように思えますが、上部に向かうほど勾配がきつくなるため登ることができないという、防御に優れた石垣である点。敵の武者が城に侵入しようとしてもそのままとんぼ返りせざるを得ないことから、「武者返し(むしゃがえし)」という異名を持つようになりました。この優美にして堅牢な石垣は、「清正流」とも呼ばれ、江戸時代から名を馳せていたようです。

地下通路「闇御門(くらがりごもん)」

2008年に本丸御殿が再建された際に、ともに復元されたのが本丸に入る地下通路「闇御門」です。御殿への正式な入口ですが、このような地下通路を持つ御殿建築は全国にもあまり例がありません。

巨大要塞である熊本城は、豊臣秀頼迎え入れのため?

熊本城は、なぜ堅牢な石垣に守られた巨大要塞としてつくられたのでしょうか? それには、豊臣家も一大事の際に豊臣秀頼を迎え入れ、西国大名を率いて徳川に対抗する心積もりがあったからだという説があります。その説のもととなっているのが、石垣の構造などから大天守成立後に増築されたと言われる小天守の存在。この増築こそが秀頼のためだというのです。大天守の各部屋には「鉄砲の間(てっぽうのま)」「具足の間(ぐそくのま)」「矢の間」「弁当の間」「貝の間」という名前が付けられ、これらが武器倉庫としての機能を持っているのに対し、小天守には付書院や床が設けられ、対面所や控えの間、衣冠を整える装束の間などとして使える部屋なども備えており、「お成り」にも充分に耐えうる構造になっています。清正にとっての「お成り」の相手とは秀頼以外には考えられず、この説が浮上したようです。その真相は今や闇の中ですが、そういった清正の豊臣家の熱い思いを感じながら熊本城を巡るのもおススメです。