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観光情報

日本の観光施設を巡る「大阪城(大阪府)」



「太閤秀吉の城」として知られる大阪城。現在、3代目となる大阪城は、それだけではない、秀吉亡き後、歴史がどう動いたのか、さらに奥深い天下人たちの思いを伝えてくれる名城です。

大阪城の歴史

豊臣の城として誕生

豊臣の城として誕生

1583年、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに勝利した豊臣秀吉は、寺内町にあった石山本願寺跡地に新城を築き始め、完成を見たのは、秀吉没後の1599年。およそ15年の歳月をかけて"豊臣の城"は完成しました。これが初代「大坂城」(明治以前は「大坂」と表記)です。実際に、この城に長く住んだのは、秀吉の遺児・秀頼とその母淀君です。1598年に秀吉が亡くなったあと、5歳の秀頼は伏見城から移り、何と、23歳でその短い生涯を終えるまで、この大坂城の外に出たのはわずか2回だけだったと言われています。

江戸時代を通じ、"徳川の城"として君臨

この豊臣大坂城は、1615年の大坂夏の陣で徳川家康に攻められ落城します。江戸幕府は、豊臣色を一掃するとともに、西国大名を牽制する目的で、大坂城の再建を開始。それは、豊臣大坂城を全て埋めてしまい、その上に巨大な"徳川の城"を築くものでした。時の将軍徳川秀忠は、堀と石垣を「旧城の2倍に」と言ったそうで、徳川大坂城は、石垣の高さ、堀の幅ともに豊臣大坂城を凌駕するものであり、江戸時代を通じて日本最大の城郭として江戸幕府の威信を示し続けました。

太閤さんのお城として大阪市民が再建

徳川時代の天守が落雷による出火で焼け落ちて以来270年間、大坂城は天守のない城でした。そこで、昭和の初め(1931年)、大阪市民が、日本一の大都市にふさわしいシンボルをつくろうと築造されたのが、現在の3代目の天守閣です。コンクリート造りの模擬建築ではありますが、圧倒的な高さと幅を持つ二重の堀に囲まれ建つその姿は、威風堂々としています。

大阪城の見どころ

徳川大坂城の石垣に建つ「太閤さんのお城」

3代目天守閣復興にあたって参考にされたのは、「大坂夏の陣図屏風(なつのじんずびょうぶ)」に描かれた豊臣大坂城の天守です。現在、大坂城天守閣所蔵のこの屏風は、夏の陣に参戦した黒田長政が戦の様子を描かせたもので、現在のところ、最も正確な描写と考えられています。

そしてここからが、大坂城の奥深い歴史が我々に見せてくれる歴史の面白さであり、現在の大阪城観光の見どころです。再建当時の大阪の人々にとって、大阪城といえば「太閤さんのお城」であり、再建するなら豊臣時代の天守しかあり得ませんでした。しかし、現存していた天守閣の土台となるべき天守台石垣は、徳川時代の大坂城のもの。豊臣時代の天守とは格段にサイズが違います。それゆえ、五重屋根の外見は屏風絵に似せてつくられたものの、全体的には横に広がった、かなり屏風図とは異なったフォルムになっています。実は、現存する石垣が徳川時代のものだとわかったのは、再建されてから約30年後の1959年。大坂城の大規模な発掘調査が行なわれた際に、地下に埋もれていた「謎の石垣」が発見されたのです。これこそが、豊臣大坂城の石垣でした。それまで大阪城の堀や石垣などの土台は「太閤さん」がつくったものだと信じていた大阪の人々の思いはいかばかりだったでしょうか。大阪城にはボランティアガイドによる見学コースも設定されているので、これについてガイドさんと語らってみるのも面白いのではないでしょうか。

必見は、「石垣」と「堀」

江戸時代の遺構として、各種櫓や石垣、そして水掘が現存していますが、やはり、徳川秀忠が「旧城の2倍に」と命じた石垣と堀は必見です。水掘は、幅が広いほど防衛能力が上がると言われていますが、大坂城の水堀は日本屈指の幅の広さ。石垣の高さとあいまって最強の防衛線となっています。「屏風折」と呼ばれるジグザグした石垣の塁線も面白く、これは横矢を掛けるための工夫です。また、本丸桜門桝形の正面にには、32畳敷きの巨石「蛸石(たこいし)」あります。是非、ご覧下さい。