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観光情報

日本の観光施設を巡る
「九州・山口の近代化産業遺産群」



非西洋地域で近代化の先駆けを実現した「経済大国日本の原点」を物語る遺産として、2009年に世界遺産暫定リスト(文化遺産)入りした「九州・山口の近代化産業遺産群」。その魅力と観光のおススメポイントを紹介しましょう。

日本の近代化を支えた産業遺産が物語る、もうひとつの奇跡

日本の近代化を支えた産業遺産が物語る、もうひとつの奇跡

第2次世界大戦後の焼け野原から、驚くべきスピードで世界第2位の経済大国まで上り詰めた日本の戦後復興は、「東洋の奇跡」と言われていますが、実は、日本はそれ以前にも、奇跡を成し遂げているのです。

黒船の来航とともに始まった日本の近代化です。日本は、幕末における西洋技術の導入以来、非西洋地域で初めて、かつ極めて短期間のうちに飛躍的な発展を遂げ、近代化の歩みの早さは世界史的にも特筆すべきものだと言われています。 その飛躍的な発展の大きな原動力となったのが、アジア大陸に近いという地理的特性により、古くから日本と海外を結ぶ窓口として発展してきた九州・山口を中心とする地域に築かれた炭坑や工場群でした。「九州・山口の近代化産業遺産群」は、それを物語る遺産で、九州の福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島各県と山口県に加え、岩手県、静岡県の8県に点在する資産が構成物件です。

その数々の産業遺産を訪ね歩く旅は、経済大国として一時代を築いた日本の原点を歴史ストーリーとともに訪ねる旅。もしかしたら、明日の日本を見つけるヒントが隠れているかもしれません。

侍たちの熱い物づくりの心が宿る「旧集成館」

まだ開国前の1852年。現在の鹿児島県城下磯地区に、日本で最初の洋式産業群(工業コンビナート)が誕生します。薩摩藩第28代当主・島津斉彬(しまづなりあきら)によって興された「集成館」です。集成館は、大砲鋳造のための反射炉や、ガラス工場、鍛冶工場などの工場群で、最盛期には1,200人もの人が働いていたと言われています。この集成館の誕生を支えたのは、侍たちの独学による科学への挑戦でした。

≪コレ!知っておこう≫侍たちを科学への挑戦に駆り立てたもの

薩摩藩の志士たちは、西欧から運ばれてきた一冊の本だけを手掛かりに集成館事業に踏み出します。その背景にあったのは、薩摩という土地が抱えていた切羽詰った事情でした。西欧列強の植民地化政策は、当時、南から中国、日本へと迫ってきており、その矢面に立っていたのが日本最南端を統治する薩摩藩だったのです。実は、長崎防衛の任にあった佐賀藩でも西洋技術導入への動きが始まっていました。直接のきっかけは、1840年に起こったアヘン戦争。東洋の大国中国が、ヨーロッパの小さな島国イギリスに負けたという衝撃に危機感が募るばかり。「煙を上げて走る蒸気船と遠くからでも撃てる大砲を持っている」ことへの恐怖心は、例えようもないほどのものだったでしょう。「自前の大砲と軍艦をつくる」-このことへの揺るぎない決心が九州の侍たちの中に芽生えたのです。当時、日本には、「たたら」による優れた製鉄技術はありましたが、たたらは鉄の船や大砲の製造に不向きだったため、彼らはオランダの技術書の日本語訳を片手に海防の一念で西洋科学に挑戦します。まさに、自力でつくりあげようとした、熱い物づくりへの思いがそこにありました。

≪コレ!知っておこう≫日本の社会基盤整備に重点を置いた集成館事業

さらに、島津斉彬は、「集成館」を中核に、造船・造砲・ガラス製造・紡績・写真・電信など多岐にわたる事業を展開。これが集成館事業と呼ばれるものです。いずれの事業も頼りは蘭学書のみだったようで、斉彬は藩内の蘭学者はもちろんのこと、幕府・諸藩の蘭学者も招いて研究を進め、どうしても西洋技術を導入できないところは、日本在来の技術を改良して補い、独自の設備を構築したと言われています。この集成館事業にはさらに特筆すべき特徴がありました。軍備増強だけを主とするのではなく、 "産業の育成・社会基盤の整備"にも重点を置き、西欧諸国と対等な関係を築こうとした点です。

集成館は残念ながら、薩英戦争(1863年)、西南戦争(1877年)と2度の戦争で大打撃をかぶり、1915年に廃止されます。現在は、「尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)」として、集成館事業に関する資料などが展示されています。

100年先を見据えた目が育てた「三池炭鉱」と「三池港」

福岡県と熊本県にまたがる「三池炭鉱」は、江戸時代に石炭採掘が始まって以降、閉山となる1997年まで日本の燃料需要を補う重要な炭鉱として活躍した貴重な炭鉱遺構です。現在も採掘した石炭を巻き揚げるための設備や施設が産業遺産として残り、石炭積出用の港として築造された「三池港」は今も工業港として現役です。

三池港には、ある物語があります。三池炭鉱は1889年、明治政府から三井財閥に払い下げられ、世界でも最先端の機械を導入し近代化を図った大炭鉱として活躍しました。しかし、当時、三井炭鉱事務長だった団琢磨はそれに満足せず、「100年先、炭鉱は閉山しても港は残る」と予言し、社運を駆けて1908年に三池港を建設。石炭の輸送コストを半分にしたのです。そして団の予言通り、三池港は、今も建設当時の面影を残す鳥がはばたく形をとどめながら、物流のハブとして生きているのです。

日本の重工業誕生の歴史も見どころ

「九州・山口の近代化産業遺産群」は、重工業誕生の歴史も見どころです。日本の近代製鉄は、1858年(江戸幕末期)に岩手県釜石で、大島高任(おおしまたかとう)が西洋の技術を導入し、鉄鉱石を用いた高炉による出銑に成功したことに始まります。明治に入り、日清戦争(1894~1895年)を契機に近代洋式製鉄所設立の機運が高まる中、1897年、明治政府は、日本で最大の石炭産出量を持つ筑豊炭田に隣接していたことや地元の熱心な誘致活動を背景に、八幡村(現福岡県北九州市)での製鉄所設置を決定。それは、日本の重工業を大きく牽引する巨大な産業システムの誕生でした。現在も、新日本製鐵株式会社の「八幡製鉄所」として稼動しています。