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観光情報

日本の観光施設を巡る「平泉(岩手県)」


平泉(岩手県)

平安時代末期、当時、奥州と呼ばれた東北の岩手の地に築かれ、およそ100年の栄華を極めた巨大都市「平泉(ひらいずみ)」。この都の中心的存在であったのが、3万枚の金箔と当時最高の工芸品で飾られた寺院「中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)」です。この黄金の寺院をはじめとする平泉の都を見て、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の島ジパング」と紹介したとも言われ、「黄金の都」のイメージの強い平泉ですが、実は、ある男の「平和な世をつくりたい」という強い願いが込められた都だったのです。

奥州を舞台にした「前九年の役」(1051年)に続く「後三年の役」(1083年)の戦乱で、現在の岩手県中央から南部と秋田県、宮城県に及ぶ領土を手に入れ、奥州の覇者となった藤原清衡(きよひら)。しかしそれは自らも家族を失うなど悲惨な代償との引き換えであり、彼は、非戦を固く決意。水陸交通の要衝の地として栄えていた平泉に館を移して「仏教による平和な世界(浄土)の建設」を目指したのです。中尊寺(ちゅうそんじ)、毛越寺(もうつうじ)、無量光院跡(むりょうこういんあと)、観自在王院跡(かんじざいおういんあと)、金鶏山(きんけいざん)で構成される世界遺産「平泉の文化遺産」は、そんな清衡と、その思いを引き継いだ子の基衡(もとひら)、孫の秀衡(ひでひら)の奥州藤原3代が、地上に表した「理想世界」の夢の跡です。

文化遺産
2011年登録
具体的な物件
中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山
該当する世界遺産の登録基準
(ⅱ)(ⅵ)

「中尊寺金色堂」に眠る藤原4代のミイラが物語るもの

「中尊寺金色堂」に眠る藤原4代のミイラが物語るもの

重厚に金箔が貼られた中尊寺の金色堂(仏堂)は、平泉の世界遺産物件の中で、初代清衡によって建立された12世紀から残る唯一の建造物です。金色に輝く螺鈿や透かし彫りの装飾が施された内部には、清衡、基衡、秀衡、そして4代目にあたる泰衡(首部分)の遺体がミイラとなって眠っています。日本の権力者で3代にわたってミイラ化され保存されている例は平泉だけ。残念ながら一般公開はされていませんが、1950年に本格的な学術調査が行なわれた際に、保存状態が良好であること、そしてそれぞれの身長や血液型、没年などかなり詳細な事実が判明しています。例えば、清衡は晩年、脳こうそくで倒れ左半身に障害があったことまでわかっているようです。

専門家によると、このミイラが物語るのは、平泉の仏教文化がただ京都仏教を模倣したのではなく、中国から直輸入した中国仏教の「生身往生」思想を背景にしたものであるということ。奥州が金の産出地だったことを生かし、平泉は中国をはじめとするアジア諸国と交流を深めていたと言われており、宗教面で東アジアのグローバルスタンダードを目指していたと考えられています。そういった視点からも、平泉の世界遺産物件を眺めると面白いのではないでしょうか。

「仏国土(浄土)」を表現した4つの浄土庭園

「無量光院跡」は秀衡が宇治の平等院鳳凰堂にならって建立した寺院の遺構。その彼方にあるのが信仰の山「金鶏山」です。

平泉で奥州藤原氏が目指した理想世界(「仏国土(浄土)」)は、世界遺産物件となっている「中尊寺大池伽藍跡」「毛越寺庭園」「観自在王院跡」「無量光院跡」の4つの浄土庭園で表現されています。そのうちの3つが神聖な山である金鶏山に焦点を合わせており、浄土思想の理想と、庭園・水・周辺景観の結びつきに関する日本古来の概念との融合を例証していると言われています。この浄土庭園のうち、毛越寺の大泉ヶ池を中心とする日本屈指の浄土庭園と観自在王院跡の庭園は、復元整備によりよみがえっています。

「毛越寺」の浄土庭園

基衡と秀衡が造営した「毛越寺」は、当時の建物は残っていませんが、金銀が散りばめられていたと言われる壮大な伽藍の遺構を見ることができ、大泉ヶ池とそれに注ぐ遣水は、発掘調査に基づいて往時を偲ばせる復元がなされています。大泉ヶ池は海岸の美しさを表し、遣水は穏やかに蛇行しながら自然の小川のようにつくられており、まさにこの世の浄土を味わえる、ぜひとも訪れてほしい素晴らしい庭園です。

「観自在王院」の浄土庭園

「観自在王院」は、毛越寺東隣に、基衡の妻によって建立されたと伝わり、浄土庭園の遺構はほぼ完全に残っています。当時の敷地の北側には、大小2棟の阿弥陀堂が建ち、その内壁には、石清水八幡宮賀茂の祭、鞍馬の様子、宇治平等院など京の都の霊地名所が描かれていたそうです。平泉に住む人にとって京都観光はかなわぬ夢。その夢を描き、平泉の人々の心を癒す、これもひとつの理想世界の表現だったのでしょう。おそらくここは当時の大人気スポットだったのではないでしょうか。

平泉観光のさらなる魅力-源義経と松尾芭蕉にも触れよう

100年栄華を誇った平泉が滅びたのは、童話「牛若丸と弁慶」でよく知られる源義経が関係しています。1180年、兄である源頼朝の挙兵に応じ伊豆黄瀬川の陣に参じてからの義経は破竹の勢いで平家を追討し、一躍時の人となります。しかし、頼朝との間で亀裂が生じ、一転追われる身に。そんな義経が頼ったのが藤原秀衡で、義経は平泉に身を寄せたのです。しかし、秀衡が病死すると、4代泰衡は頼朝の圧力に耐えかね、義経を自害に追い込みます。そうまでしたにも関わらず、鎌倉の軍勢は奥州を攻め、1189年、藤原氏はあっけなく滅亡を迎えるのです。

「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」

松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中、平泉で詠んだ有名な句です。奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる1689年、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、「奥の細道」の旅に出ます。その細道のはてにある平泉を訪れた芭蕉は、往時の栄華はなく、旧跡は田野となって広がるばかりの光景を見て、そう詠んだのです。芭蕉はまた、続いて訪れた中尊寺では、かねてより伝え聞いていた唯一残る平泉の建造物「金色堂」を参詣し、鎌倉北条氏によって建てられたと言われる覆堂(おおいどう)の中で、朽ち果てた金色堂がかろうじて光を投げかけているのを見て、次の句を残しました。

「五月雨の 降残してや 光堂」

仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史にまなざしを向けた句です。

現在は、中尊寺金色堂は往時の美しい姿をよみがえらせており、他の貴重な遺産も発掘調査により発見された多くの詳細事項に基づき復元や保存が行なわれ、世界遺産として輝きを放っています。そうした輝きを味わいつつ、芭蕉が当時見た景色にも思いを馳せると、より深く平泉の旅を楽しめるのではないでしょうか。