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観光情報

日本の観光施設を巡る「石見銀山遺跡と
その文化的景観(島根県)」


石見銀山遺跡とその文化的景観(島根県)

石見銀山(いわみぎんざん)遺跡は、島根県大田市にある、16世紀から20世紀にかけて採掘から精錬まで行なわれた銀鉱山跡と、そのふもとの谷間に細長く存在するかつての鉱山町から成り、さらにこの銀鉱山を軍事的に守護するための周辺の山城跡が含まれています。

大航海時代の16世紀、石見銀山は、ヨーロッパで作成された世界地図に「銀鉱山王国」としてその名を記しています。それもそのはずで、16世紀半ば(戦国時代後期)から17世紀初め(江戸時代前期)にかけての石見銀山の全盛期には、世界に流通していた銀の約3分の1が日本産だったと言われ、そのほとんどを石見の銀が担っていたのです。石見銀山で産出される銀の品質は良く、ボリヴィアのポトシと並ぶ世界の2大銀鉱山として、世界経済にも大きな影響を与えたと言われています。

鉱山というと、採り尽くされた跡地といったイメージが浮かびますが、石見銀山の特徴は、坑道を掘り進めていく採掘法を採用して周辺環境の保全を図り、銀の精錬に使う木材を植林で得ていた自然共生型の鉱山であったこと。何と、16世紀からすでに環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行なっていたわけです。そのため、周りは自然にあふれ、遺跡としても非常に味わい深い美しい景観を保っています。そしてこれが、世界遺産として評価された重要なポイントです。鉱山に関係する遺跡と豊かな自然環境が一体となって文化的景観を形成する例は、世界的にも極めて貴重であり、アジアで初めて、産業遺産が世界遺産入りを果たすこととなりました。

文化遺産
2007年登録
具体的な物件
銀山柵内、代官所跡、矢滝城跡、矢筈城跡、石見城跡、大森・銀山重要伝統的建造物群保存地区、宮ノ前、熊谷家住宅、羅漢寺五百羅漢、石見銀山街道鞆ケ浦道、石見銀山街道温泉津・沖泊道、鞆ケ浦、沖泊、温泉津重要伝統的建造物群保存地区
該当する世界遺産の登録基準
(ⅱ)(ⅲ)(ⅴ)

日本の鉱山開拓をリードした石見銀山と大久保長安

日本の鉱山開拓をリードした石見銀山と大久保長安

石見銀山は、1526年、九州博多の豪商・神谷寿禎(かみやじゅてい)により発見され、開発が開始。1923年に休山するまでの約400年にわたり、採掘が続けられていました。

特に石見銀山の黄金期と言えるのが、もとは武田家の蔵前衆だった大久保長安(おおくぼながやす)が、1601年に徳川幕府の初代石見銀山奉行として着任してからの10数年です。実はこの大久保長安、現代の財務省経済産業省国土交通省などの大臣をまとめて兼務した"江戸のスーパー政治家"です。そして稀代のアイデアマンでもありました。例えば現在も東海道などに残る「一里塚」は彼の発案。その手腕を石見銀山でも発揮したのです。

≪コレ、知っておこう!≫大久保長安の"石見銀山経営改革"

≪コレ、知っておこう!≫大久保長安の「石見銀山経営改革」

大久保長安は、それまでの銀山経営を一新、画期的な経営手法を取り入れ、銀生産量を飛躍的に拡大させました。その経営改革の主なものは以下です。

  • 代官所直轄の「御直山(おじきやま)」と民間の「自分山」に分け、御直山の設備に公金を投入。
  • 精錬所を設置し、採掘から精錬までを一括して行なえる体制を築く。
  • 新鉱脈の発見や水抜き抗の開発を奨励。新財源と発掘の効率化を図る。
  • 経営陣と銀山の発掘人の間に置かれていた請負人を廃止。直接発掘人を率いる体制を確立。
  • 税は生産高に応じて徴収し、労働力を無駄にすることなく、確実に安定した税収を確保。

長安はその後、鉱山開拓のスペシャリストとして、佐渡、伊豆など主要鉱山の奉行を立て続けに兼務。石見で編み出した新技術を導入し、各地の鉱山の生産量を飛躍的に高めていったのです。

中心として栄えた大森町をまずはそぞろ歩こう

中心として栄えた大森町をまずはそぞろ歩こう

石見銀山遺跡は、大田市の広範囲に広がっていますが、中心となるのは大森地区です。実際の鉱山跡地を眺める前にまず立ち寄りたいのが、今なお当時の面影を色濃く残す大森町の町並み。1800年ころに再建された表門・門長屋が残る大森代官所跡(現「石見銀山資料館」)や内部見学もできる旧商家、銀山で働いて亡くなった人々の霊を供養する500体の羅漢像のある「羅漢寺」などは、まさに石見銀山の文化的景観を味わえる世界遺産登録施設です。古民家を利用したカフェやギャラリーも多く、楽しくそぞろ歩くのにぴったり。

鉱山跡地を歩き、当時に思いを馳せよう

鉱山跡地を歩き、当時に思いを馳せよう

実際に銀の採掘が行なわれていた鉱山跡地には、豊かな自然に抱かれた露頭掘り(地表に露出した鉱脈の採掘)跡や数多くの間部(まぶ=坑道)が残されています。その中で「龍源寺間歩」(全長273m)は通年公開されているただひとつの間部で、内部にはノミで掘った生々しい跡が残り、中を歩けば活気ある当時の雰囲気が間近に感じられます。また、限定期間のみの一般公開ですが、「大久保間部一般公開限定ツアー」はおススメです。石見銀山初代奉行の大久保長安から名付けられたこの間部は、石見銀山最大級の間歩で、その規模は他の間歩に比べて群を抜いています。坑内の高さは最大5mあり、大久保長安が槍を持ち、馬に乗ったまま入ったという伝説もあります。

銀の輸出入を支えた港と港町へも

銀の輸出入を支えた港と港町へも

世界へ流通した石見銀及び銀鉱石の積出港が、「鞆ケ浦(ともがうら)」と「沖泊(おきどまり)」で、それに伴って港町として発展したのが「温泉津(ゆのつ)」です。温泉地でもあった温泉津は、16世紀後半には沖泊と一体となって銀山で消費される諸物資の搬入地となりおおいに発展しました。温泉津は、大正時代や昭和初期の建築が並びノスタルジックな雰囲気のある湯治場で、日本温泉協会から最高評価を受けた温泉が湧く「薬師湯」と開湯1300年余の「元湯」という立ち寄り湯もあり、名湯の入り比べが楽しめます。