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日本の観光施設を巡る「姫路城(兵庫県)」


姫路城(兵庫県)

JR姫路駅から徒歩15分、標高46mの姫山を中心に立地する「姫路城」は、安土桃山時代から江戸時代にかけて築かれた城で、17世紀初頭の日本の城郭建築の粋を極めた傑作として、現在、日本の城としては唯一の世界遺産になっています。(「法隆寺地域の仏教建造物」とともに日本の世界文化遺産第1号)

実は、この姫路城、築城から約400年、一度も戦禍に巻き込まれたことがなく、天守・櫓(やぐら)・御殿など城の中枢である内曲輪(うちくるわ=内堀で囲まれたエリア)の城郭建築をほぼ完全に残している城です。ほかに類例のない遺構を含め、今も実際に使われていた当時の姿を見ることができるという点で、極めてまれで貴重な文化遺産なのです。日本城郭協会が選定した『日本100名城』において、「困るくらい見どころが多い」と紹介されています。その特徴は大きく2つ。「美的完成度の高さ」と「当時の最新の防御システム」です。この2点をポイントに姫路城観光に出向くと、姫路城の面白さがよくわかります。

文化遺産
1993年登録
具体的な物件
姫路城
該当する世界遺産の登録基準
(ⅰ)(ⅳ)

美的完成度の高さをまず愛でよう

美的完成度の高さをまず愛でよう

景観として何より際立つのは、「美的完成度の高さ」です。特に、5層7階の大天守と3つの小天守が渡櫓(わたりやぐら)で連立式に組み合わされた「連立式天守」は、幾重にも連なる瓦屋根と白漆喰の白壁が見事な相乗効果を発揮。その姿は羽を広げて天空に舞う白鷺(しらさぎ)を彷彿とさせ、「白鷺城(はくろじょう)」と称されるほどで、見るものを引き込む構成美がそこにあります。

当時の、最新の"防御システム"を探検しよう

一方で姫路城は、軍事的にも非常に優れた城です。姫路城は、合戦の際に決して落城しないようにつくられた難攻不落の要塞という特徴を持ち、防御に工夫した日本独自の城郭の構造を最もよく見られる城としても、見どころたっぷり。各所に様々な仕掛け(防御システム)が施され、複雑で巧妙な構造は、まるで迷宮に入り込んだかのよう。

例えば、天井から槍の降ってくる小さな門、迷路のように行き止まりのある土塀、滑りやすい丸石の階段、装飾に見せかけた銃眼(敵への射撃や監視のための穴)などなど。「扇の勾配」と呼ばれる美しいカーブを描く石垣も、実は、緩やかに見えて上にいくほど反り上がる構造になっており、容易に見えてよじ登れない工夫が施されたもの。さらに城を取り巻く堀は、風水学によって城自体の力を強くしようという意図で独特の形をしているのです。

美的完成度の高さの一因となっている白壁の白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめつくり)も、実は防火・耐火目的があります。安土・桃山時代までの多くの城郭の外装は、鎧下見板張(よろいしたみいたはり=横板を少しずつ重ねて張った外壁仕上げ)ですが、姫路城は、築城のころに普及していた火縄銃の射撃によって延焼しないように、防火・耐火のために土蔵などを塗籠にしていた寝殿造りの方法を城に転用したのです。これら当時の最新の防御システムを見るだけでも心が躍ります。

≪コレ!知っておこう≫数ある「門」に注目!

姫路城には、城門も数多く残っており、縄張(なわばり=城の設計プラン)の中で、城門がどのように使われていたかにも注目すると、歩き疲れずに楽しめます。それぞれの門の美しさや趣にも注目ですが、おススメは、やはり"仕掛け門"の数々。例えば「はの門」は、向こうに天守閣がくっきりと見え、敵に天守閣がもうすぐそこだと錯覚させるつくりが特徴。門扉の上方床面には石落としがあり、櫓の真ん中にある印象的な武者格子窓は、姫路城の入口となる「菱の門(ひしのもん)」の内側を見通す警備の役割も果たしています。また、頭を打ち付けるほど低い「ほの門」は、万一の場合に埋めやすい設計に。「ぬの門」は、門の両側に石垣を築き、その上に櫓(やぐら)を乗せた城独特の櫓門(やぐらもん)で、櫓の床板を外して石を落としたり、槍で突いたりできる仕掛けがあります。さらに北の井戸から水を運ぶルートに名付けられた「水の門」は、水を流し込めば、ミニダムのようになると言われる門です。

さて、姫路城は誰の城? 家紋チェックも面白い!

姫路城の前身は、黒田重孝が1555年~1561年の間に、主君小寺政職(おでらまさもと)の許しを得て「御着城(ごちゃくじょう)」の出城として築いたものです。これを1580年、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が中国征伐の拠城として3層の天守閣を持つ城に改修。その時、秀吉に自らの居城を献上したのは、黒田重孝の孫で、「この男がいなければ豊臣秀吉の天下はなかった」と称される秀吉の軍師・黒田官兵衛(くろだかんべい=孝高)」です。

その後、1600年の関ヶ原の戦い後に、徳川家康の娘婿でもある池田輝政(いけだてるまさ)が、豊臣家を慕う西国大名ににらみをきかせる「西国将軍(さいごくしょうぐん)」として姫路に入り、実質100万石とも言われた豊かな財力と徳川幕府の力を後ろ盾に、大改修に着手。9年の歳月と推定2,430万人もの人々を動員して、1609年に連立式の天守を持つ白亜の名城を築いたのです。そして1617年、池田家に代わり新たな城主となった本多忠正(ほんだただまさ)が西の丸などを増築して、現在の姿を完成させています。

姫路城は、江戸時代、西国の外様大名を監視する重要な役割を持つ城であったことから、この任務を果たせる人材を配置するために、池田輝政から最後の酒井忠邦まで6氏31代が姫路城の城主となっています。姫路城の建物の鬼瓦や軒瓦には、羽柴秀吉以来、この城に入城した城主の家紋が彫られており、これらの家紋を見つけ当時に思いを馳せるのも、姫路城の楽しみ方です。